福岡に帰ってきました。
駅を降りて、帰り道にとってもきれいな桜を見て、ついつい感動してしまいました。
昨日は、京都での宮古島ツアーでの報告会。
とっても素晴らしい会になりました。
子どもたちの目がキラキラしていること、していること。
楽しかったんだろうなぁ・・・
また行きたいって思っている子どもがたくさんいたのが、とっても嬉しかったですね。
改めて思うことは「しつけ」の定義を間違えると事故るってことです。
ボクが、最近、教育事業に力を入れるようになって初めて気づくのが「子どもを●●●のように育ってほしい」という願いが保護者からたくさん聞くこと、そして心の声がだだ漏れして出てくることです。
こういった思いは、もしかすると、親のエゴだけでなく、子どもを育てるという責務を負った親の宿命でもあるかもしれません。
子どもに対する親の思いがめちゃくちゃ重たいと思う
自分が小さい子どもの頃は、当然(?)親の思いなんて微塵も感じていませんでした。
少なくともボクは・・・
毎日遊んでやりたいことやって、やりたくないことを泣いて騒いで抵抗して、怒られ、引っ叩かれて、でも挫けずに遊んでと日々繰り返すのです。
宿題やれとか、なになにしろ・・・とか、うるさいことも放置して自分を生きていた気がします。
それでも親は、今の自分と同じように、子どもに対していろんな思いを馳せていたと思います。
- 思いやりのあるやさしい子に育ってほしい
- 強い子に育ってほしい
- 頑張って勉強をしっかりしてほしい
- 元気で健康に育ってほしい
- たくさんの友達と仲良くなってほしい
何もかも持ってほしいなんて思う親はいないと思います。
ところが、出来れば今後より良い人生を送れるようになってほしいと願っていると感じるのです。
その願いが少なからずあるからこそ、親は子どもに厳しくし、時には悩み、苦しみを味わうこともあるのではないでしょうか?
- 「うちの子はわがままで癇癪持ちでこの先どうなるのだろう?」
- 「なんで言うことを聞いてくれないの?」
- 「なんでうちの子は、お友達と仲良く遊べないの?」
- 「外で元気に遊びまわってほしいけど、引きこもり気味で心配」
- 「いつまでたっても、ママに甘ったれでこの先大丈夫かな?」
全部、指標が親のものさしでしかないわけです。
そのため、親はより「厳しく」なったり、「口うるさく」なったり、「無理やり」いろいろなことをやらせたり、など右往左往したりします。
なんてこった。本末転倒です。
マジでヤバいですよね。
子どもは、あなたが周囲からされる評価の道具じゃないんです。
もちろん、そういった右往左往や自分自身と戦うのは別にかまわないと思っていますが、それが過度になってしまう親が、昨今は増えている気がするのです。
なぜ過度になってしまうかというと、そこには色々な要素があると思います。
それが「親の思い通りにさせたい」「こうでないと立派な大人になれない」「周りに後れをとる」などという思いが強くあるのではないでしょうか?
親であれば、誰しもがこのように思うかもしれません。
しかし、度が過ぎると子どもにとっては、逆効果にしかならないのかもしれません。
教育でも、子育てでも、すべてに正解はないと思うのです
よく巷でも「子育てに正解はない」とは、言われています。
だけど、本当の意味を理解せず、上辺だけをみているのではないかと思うわけです。
子どもに対する親の愛情や教育はとても重要ですが、必ずしも親の思いが子どもに伝わるとは限らないということです。
そして、子どもの成長には”親以外”の要素も大きく関わってくるからです。
つまり、世の中何がどう転ぶかなんて誰もわからないということです。
- 子どもが小さい頃は親の言うことをよく聞いて、素直でやさしい子だったけど、大きくなったらすっかり親の言うことを聞かなくなった。勉強もしなくなった。
- 明るくてみんなに好かれる子だったけど、大人になったら定職にも就かず遊びほうけてばかりいる。
- 小さい頃は親に反抗していてばかりで、学校でも問題児扱いされていたけど、大人になったら真面目に働き家族をしっかり養っている。
- 子どもの頃は、友達もあまり居なくて一人で居ることが多かったけど、大人になったら多くの人に慕われていて、思いやりのある人間に育っていた。
まぁ、キリがないのでこれぐらいにしておきます。
ここで何が言いたいかというと「今が良いからこの先も良い」とか「今が悪いからこの先も悪い」とは必ずしもなりません・・・ということです。
そんなこと知ってるわ!って思う方も多いかと思います。
ですが、これ知っているだけ。
ちゃんと理解していないし、わかろうとしていない。
結構この辺りが見えなくなっている人も多い気がするんです。
だからといって「先がわからないなら子育てなんて何でもいい」となるわけではもちろんありません
目先のことに囚われ過ぎたり、今の子どもの状況を見て一喜一憂する必要もないのではと思うのです。
目先のことばかり追っていたり、子どもの行為に一喜一憂するのは、子どもの表面しか見ていない可能性がありますし、子どもの本当の気持ちから遠ざかっている可能性もあるような気がします。
もし、子どもの表面しか見ていないとしたら、きっと子どもには何を言っても響かないと思います。
そして、結果(子どもの行為)を見ては一喜一憂し、上手くいかないときは余計に厳しくなったり、夫婦喧嘩が絶えなかったりするかもしれません。
実際に、問題が起きている家庭を見ると、ほとんどの家庭が子どもの表面しかみていない場合が多いです。
今出来ることをやって、後はおまかせするぐらいがちょうどいい
親の気持ちは、常に子どもの行く末を案じているかもしれません。
しかし、教育、子育てに正解はなく、どう転ぶかわからないのであれば、大人であったり、親は今できることをするしかありません。
そして、結果的に子どもがどのように育っていくか、どのような大人になっていくかは「子どもにおまかせ」でいいのではないかと、ボクは思っています。
ようはです。
この「 子離れ 」ってのをしっかりやらないといけないと思うんですよね。
子離れは、子どもが大きくなったらするものではなく、心の中では最初からしているべきだと思います。
子どもの未来を案じながら、叱るべきときは叱り、鬼となるべきときは鬼となり、静かに見守りながら「今出来ること」を集中するのです。
そして「後はおまかせ」でいいんじゃないかと思うんです。
どの道を行くか、どのように成長していくか。
それは、子どもの勝手なんだと思います。
私が親だから同じレールの上を・・・というのは時代遅れなんじゃないでしょうか?
ここまでいかがでしたでしょうか?
深く考えずに書き始めてしまったので、まとまりない記事かもしれません。
しかし、自分で読み返すのは面倒なのでそのままツラツラと書いています。
今日の記事は、ボクが考える教育・子育てでもあったりします。
子どもの未来を必要以上に案じない。
そして、子どもの今現在の状態に一喜一憂しないということじゃないでしょうか?
やはり、親であり、大人なので、子どもにちょっとした不安要素( 例えば「こんなわがままで友達出来るのか?」など )があれば、つい心配になりうるさく言ってしまうこともあると思うのです。
この記事では偉そうなこと書いていますが「言うは易く行うは難し」って言葉だと思うのです。
自分自身は、いい子どもで育ってきたんだろうか?
ここを一度、問いかけてみてはいかがでしょうか?
ボクは、まったくもっていい子どもではなかったです。
ただ、一度も就職することなく、ここまでやってきました。
ただ良かれと思ったことが仇になったり、よろしくない行為が良い結果につながることもあります。
だからこそ、一番良いのは、今出来る最善のことを頑張り、先はあまり見ない方がいいのではと思ったのでした。
ではでは。
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