アニメ『鬼滅の刃』のストーリー構造には、アドラー心理学そのものが、思いっきり盛り込まれている

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なにが、これほど人々の心を惹きつけるのでしょうか?

そうです、あの鬼滅の刃ですよ。すごくないですか?

https://koichan8888.com/archives/6812

流行ものには、基本的に興味がないタイプなので「本当に面白いと思ってるのか?」「みんなが鬼滅鬼滅って言ってるから合わせてるんじゃないか?」と思ってたのですが、面白かったです!!

ストーリーの面白さは、もちろん言うまでもないのですが、やはり、一番は主人公の竈門炭治郎をはじめ、魅力的な登場人物であることは間違いないでしょう。

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そして、今回は、この竈門炭治郎の思考が、とてもアドラー心理学的であるのではないだろうか?と思う点について書いていきます。

その前に、アドラー心理学と、なぜ関連付けたかを書いていきたいと思います。

「全ての悩みは対人関係の悩みである」

アドラー心理学では、こう言われています。

本当にそうなのでしょうか?

対人関係以外でも、お金や仕事など、他にも悩み事はあるものです。

アドラーの言う通り、全ての悩みは対人関係だというなら金銭的な悩みもまた、対人関係に起因するのでしょうか?

これ、わからなくもないんです。

ボク達はなにかと人と比べてしまいがちです。

他人の年収が自分より多い、自分より大きな家に住んでいるなどなど、比べてしまったらキリがないぐらい比べてしまいます。

以前にもこんな記事を書いていたのも比較の一種なのではないでしょうか?

https://koichan8888.com/archives/6834

キラキラ起業家を見て、自分とは違うなって思ったり、あの人みたいになりたいって思ったり…

そう考えると、たしかに対人関係の悩みと言えなくもないんですよね。

他人と比較するから悩んでしまうのではないでしょうか?

仕事上での悩みは、どうでしょうか?

 上司が評価がしてくれない。

同僚がサボってばかりいるせいで自分の負荷が増える。

対人関係の悩みといえなくもないんじゃないでしょうか?

アドラーは、そんな対人関係の悩みに対処法を示してくれているように思います。

その課題は、誰の課題なのか「課題の分離」をすること

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ここで大切なことは「自分の課題」「他人の課題」を分けて考えることです。

馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない

 このことわざをご存知でしょうか?

  • 「馬を水辺に連れて行くこと」は自分の課題
  • 「水を飲む」のは馬の課題

水を飲むかどうかを決めるのは「馬」なのです。

例えば、先の例の「上司が評価してくれない」と言うことにモヤモヤしているとしよう。

この場合ですが「評価する」という行為は、上司の課題です。

つまり「他人の課題」という捉え方になります。

あなたの課題は「評価してもらえるよう、日々の仕事で成果を出す」ことなのではないでしょうか?

他人をコントロールさることはできないのです。

コントロール出来ないものに、悩んでも意味がないのではないでしょうか?

ボクが思うのは、他人の課題に干渉しようとするから悩むのだと考えます。

自分に出来ることのみ、つまり自分の課題だけに注力すべだとアドラーは言っています。

そもそも「人は変わらない」という前提をもっていること

他人を変えることはできないのです。

変えることができるのは自分だけなのです。

もし、他人が変わったと感じたのならば、それはあなたが変えたのではないのです。

あなたが変わったのでしょう。

あなたの見方が変わったのでしょう。

他人の感情や、行動に振り回されるのを止めて、自分軸を持ち、自責思考になることで対人関係の悩みは軽くなるのではないかと思うのです。

「どんなにつらくても前を向いて生きていくしかない」というテーマ

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ここから鬼滅の刃の話をしていこうと思います。

個人的な感想と思うところを書いているので、サラッとみていただければ嬉しいです。

鬼の正体は人間

人間だった、人が鬼になる。

なるほどな、実際に鬼みたいな人っています。

ですが、鬼滅に出てくる鬼は「人間を食べるっていう設定」になっていますから、ちゃんと目的があるんだと思うんです。

人間は、むしゃくしゃしたから、退屈だから、面白いからみたいな、自己中でアホみたいな理由で傷つけたり殺したりするわけです。

動物からみたら、人間は、鬼みたいなもんに見えているのではないでしょうか?

鬼の首を切ることが許される世界

アニメでは、鬼殺隊が鬼の首を切ってくれるけど、現実の世界に鬼殺隊はいません。

今の世の中で、仇討ち、敵討ちをしたら犯罪者になってしまいます。

鬼滅の刃がヒットした理由に、そんな願いも込められているのでしょうか?

でも、めちゃくちゃ血出る演出も多いし、エグいし怖いから、見れない人もいるのかもしれません。

実際に上映区分が「PG12」に決まっていました。

12歳未満は保護者の助言、指導が必要ですが、誰でも見ることができる区分となっています。

ちなみに、映画倫理機構(映倫)によると、PG12はこのように記載されています。

12 歳未満の年少者の観覧には、親又は保護者の助言・指導が必要

引用元 : https://www.eirin.jp/img/4ratings.pdf

また、映倫の詳しい資料にも、こう書かれていました。

この区分の映画で表現される主題又は題材とその取り扱い方は、刺激的で小学生の観覧には不適切な内容も一部含まれている。一般的に幼児・小学校低学年の観覧には不向きで、高学年の場合でも成長過程、知識、成熟度には個人差がみられることから、親又は保護者の助言・指導に期待する区分である。

引用元 : https://www.eirin.jp/img/4ratings.pdf

みんな闇を抱えながら生きている

もう鬼も含めて、登場人物の壮絶な過去はドキュメントではないでしょうか?

現実にあるから恐ろしい、ノンフィクション近いぐらいの迫力があるなって思いました。

死んだ人は、生き返らない。

こんな経験をした人でも、強くならなきゃと頑張っている。

キャラがめっちゃ良い人で、ギャグがあるから見ていられます。

この世界は鬼ばかりで、どんなに残酷でつらくても「生きていくしかないんだ」というメッセージを伝えてるんだと思います。

ある別な角度から見れば、精神世界の話でもあると思う

ボク自身も、割と五感は鋭いほうなので「鼻が利く」「耳がいい」「勘がいい」という感覚は、ある意味でわかります。

呼吸や、瞑想が大事っていうのもわかるんですよね。実際に、今もやっていたりするので…

全集中の呼吸で、身体を治す、止血するって、ヒーラー的な感覚なのかな?って思ったりもします。

夢や無意識、核というのは、魂のことなんでしょうか?

光る小人とか…

改めて、映画を見ていて思ったのは、なんで炭治郎の頭にアザなのか?傷なのか?があるのかは、久々に見たからなのかもしれないからですけど、選ばれし者的な証なのかな?って、改めて確認してみよう…って不思議に思ったりもします。

社会現象を起こすほどブームになるものには、人類に伝えるべきメッセージが隠されているのだと思います。

これは、ある意味で壮大な精神世界の話ではないか?って感じたんですよね。

なぜ「鬼滅の刃」にはアドラー心理学的要素があったと思ったのか?

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アドラー心理学が考える、人間にとって一番大切なものは「所属感」ではないでしょうか?

その所属感は、何よりも大切です。

三大欲求よりも、命よりも大切です。

人間は所属感を感じれなくなったとき、命さえ投げ出します。

この「所属感」と聞くと、何かグループがあって、そこに自分が受け入れられて安心して馴染めているかという感じがしますが、アドラー心理学の文脈においては、ちょっと違います。

アドラー心理学における「所属感」とは、自分が他者に認知されているか・認められているか、そして居場所があるか、という意味合いになっています。

ただし、「ポジティブに」認知されている必要はありません。

だからといって「ネガティブに」認知されていることも、また所属感になりうるのです。

つまり、人間が所属感を失ったと感じたら、2通りの行動をします。

一つは、周りと協力して、建設的な行動をすること。

もう一つは、周りと競合して、破壊的な行動をすること。

相手を蹴落とそうとしたり、暴力的な感情・行為によって相手をコントロールしようとするのも、自分なりに居場所を作ろうとしているのです

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その所属感の薄れは「劣等感」と呼ばれます。

人間は常に何かしら事件、アドラー心理学では「ライフタスク」と呼ばれているものを目の前にして、劣等感を感じて、それを埋め合わせようとしながら、人生を送っているのです。

これらのアドラー心理学における「劣等感」から考えてみると以下に当てはめられます。

  • 鬼殺隊→みんなの幸せを築こうとしながら劣等感を埋めている
  • 鬼→破壊的な行動によって劣等感を埋めている

このように考えられるのではないでしょうか?

鬼殺隊の方は、周りといつも協力しながら、人類にとって脅威である鬼と、己の命も投げ出しながら戦っています。

しかし、鬼の方は暴力的な組織の中で、他者、つまり人間を食い物にしながら自己中心的に自分の居場所を作っています。

ここで大事なのは、鬼殺隊のメンバーの方も、鬼も、全員過去にそれぞれ深刻なライフタスクがあったということです。

例えば、炭治郎であれば家族を殺されて鬼にされたことであったり、悲鳴嶼行冥であったら面倒を見ていた子どもたちを殺されたこと。煉獄杏寿郎なら親子関係に強烈なコンプレックスがあったこと、鬼でいうのであれば、猗窩座は幸せな生活を築きつつあったのに周りの人間に毒を盛られたことなど、全員が過去に強烈なライフタスクに直面したことがあるのです。

過去を悔やむのではなく「目的」に向かって進んでいる

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アドラー心理学は「目的論」で考えられていると思っています。

人の行動は、原因ではなく、目的によって決まるとされています。

因みに、かの有名な心理学者フロイトは「原因論」で考えられているわけです。

炭治郎の言動は、徹底的に「目的論」といえます。

なぜ、そう言い切れるのでしょうか?

炭治郎の目的はただ一つだと思うんです。

鬼にされた妹を人間に戻すこと。

それだけだ。そして、それは決してブレることはないのです。

もし、原因論で考えるどうなるのでしょうか?

  • なぜ、自分家族が惨殺されたのか?
  • なぜ、妹は鬼にされたのか?
  • なぜ、鬼殺隊はもっと早く来てくれなかったのだ?

そんなことばかり考えて、過去を悔やむことしかできないのです。

だが、炭治郎は違うのです。

そんな事を考えるより、今、自分がやるべき事は何かを考えているのです。

悔やんでも殺された家族は戻らない。

自分にできることは、妹禰豆子を人間に戻す方法を探すことなのだと…

 この物語では「課題の分離」ができている

炭治郎が鬼狩りをするのは、誰かに感謝されたり認めて欲しいわけではないのです。

むしろ、そんなことはどうでもいいと考えているのではないでしょうか?

ただ、ただ自分にできることだけに集中しているんじゃないか?って思うんです。

強くなり、鬼舞辻無惨を倒すことが、禰豆子を人間に戻す唯一の手段であり炭治郎の目的なのです。 

自分にできることは、鍛錬を重ねて強くなること。

諦めずに訓練を続けること。

ただただ、それだけなのです。

自分のやるべきことをやる。

つまり「課題の分離」がしっかりできているのではないでしょうか?

共同対感覚を持っている

アドラー心理学を学んでいると、この「共同体感覚」がキー・コンセプトとなってきます。

共同体感覚とは、一体なんなんでしょうか?

一言でいうと、他者貢献であると考えます。

炭治郎だけでなく、鬼殺隊は、全員この「共同体感覚」を持っていると思います。

鬼殺隊の幹部である9人の「柱」たちは、親兄弟を鬼に殺された辛い過去を背負っている者もいます。

自分と同じ悲しみを他の人に味わって欲しくない。

そのために鬼を殺すのです。

今ある幸せを失わないように。

彼らは、人の幸せのために自分の命を賭して戦っているのです。

炭治郎は、なぜくじけないのか?なぜ強いのか?

個人的に思うには、明確な目的があり、その目的達成だけを考え行動しているからだと思います。

人の心に、それが鬼であったとしても、寄り添うことができて、他人の幸せのためなら自己犠牲も厭わないのです。

いわゆる「自分軸」を持っていて、決してブレないのです。

それこそが、炭治郎の強さの源ではないでしょうか?

アドラー心理学を意識すると、鬼滅の刃の新たな魅力が見つかるかもしれないのではないでしょうか?

さて、明日もがんばりますか。

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