ちょっと、昨日の記事が長くなったので、続きを書いてみたいと思います。
目的を決めるためには、判断が必要なんじゃないかって思います
しかし、その判断を決めるものは個人の価値判断が要因になっているのです。
わかりにくいので、例を持って述べていきたいと思います。
例えば、
- 子供同士が喧嘩をしているのを見かけて、止めに入るという判断をする人は、とにかく暴力はいけないなどの価値判断からきています。
- 子供同士が喧嘩をしているのを見かけて、そのままにするという判断をする人は、喧嘩もお互いを分かり合うためのきっかけであるといった価値判断からきています。
前者は、喧嘩を止めさせるという目的に対して、後者は仲良くさせるという目的です。
実際はこんなに極端なものではないですが、言いたいことは、
それぞれの人は大事にしているものが違い、その違いから行動という判断、さらには目的まで変わってくるということです。
ボクたちは、何かしらの価値観を持ち、価値判断をして、行動しています。
その価値観は意識的な時と、無意識的な時があります。
無意識的なことを認知するということは非常に難しいのですが、いずれにせよ意識的もにしろ、無意識的にしろ、自分がどのように物事を価値判断しているかという探求なしに、自分の目的を決めることはできないでしょう。
ボクの理解では、この価値観の探求こそが「悩む」ということなのです。
「悩む」ことについて
悩むことは、自分の価値観や世界観、などの価値判断などについてあれこれと思考することです。
言い換えると、答えのないことを思考することが悩むことです。
では、どんな時に悩むでしょうか?
少し考えてみましょう。
- 恋愛をしている時
- 進路を決めなければいけない時
- やりたいことを見つけたい時
- 善悪の判断をする時
- 命に関わる問題が起きた時
- あっちを取ればこっちが無くなると言った時
- 自分の人生の目標を決める時
こんな場合などがあります。
このように考えてみると、何か重要な選択をしなければいけない時に「悩む」ということが発生します。
逆に言えるのは、重要な選択をしない時はあんまり「悩む」ということをしないとも言えます。
これらの問題に対して悩む時は、精神的に非常に不安定になりやすいです。
- どうすればいいのかわからない
- 何を信じていいのかわからない
- 優先順位がわからない
- 大切なものがわからない
こんな感じの状態ではないでしょうか?
さらに、往々にして決断の時は決まっている場合がほとんどでしょう。
進路、恋愛など様々な問題には決断をしなければいけないタイミングがあります。
その際、最良の選択をするには自分が自分の価値観に従った決断をしなければいけません。
なぜなら、自分の価値観とは逆のことをやると非常に苦しい思いをするからです。
例えば・・・
- 人のために仕事をしたいと思っている人が、人のために仕事をできないというのは非常に苦しい
- 人を騙したくない人が、人を騙すようなことをすることは非常に苦しい
- 自分の将来は一流のスポーツ選手になりたいのに、アルバイトや遊び続けるのは非常に苦しい
どうですか?
このような経験はありませんか?
さらに、この決断を周りに委ねる人というのもまた多数でしょう。
- 周りの人が勉強なんて必要がない、ただ仕事をやっていればいいんだ
こういう意見に振り回されて、自分で考えずに流されて勉強をしないわけです。
- 周りの人が勉強以外なんの意味もない、ただ勉強だけやっていればいいんだ。
こういう意見に振り回されて、自分で考えずに流されてひたすら勉強するのです。
- 日本において就職活動をしないことは、人生の終わりを意味する。
こういう世間の意見に振り回されて、自分で考えずにただひたすら焦って就活する。
- 入社して3年以内に会社をやめた場合、大変だ。
こういう世間の意見に振り回されて、自分にとって何が大切か見えなくなる。
もちろん、すべてのことに関心を持ち、決断を下すことは不可能です。
だから、自分で範囲を絞る必要があるのですが、以上の例のように、他人に自分の判断任せることをしている場合、自分の人生を生きていると言えるのでしょうか?
ボクは「考える」と「悩む」ということ自体も、世間が「考えること」以外時間の無駄なんじゃないかって思っています。
「悩むこと」は無駄だ!と言っているから、自分も悩まないようにしています。
…というのは、それ自体、ただの思考停止なんじゃないかと思っているからなんです。
上記でも述べていますが、「悩むこと」は自分の判断や決断後の結果にも多大な影響を与えます。
「悩むこと」でしか、自分の価値判断の内容は見えてこないんです。
自分の価値判断の内容がわからなければ、いずれ大切なものを失うでしょう。
実は、「悩むこと」はとっても重要なんです。
以下では、悩むことと考えることに対する自分の考え方の変遷を見ていきたいと思います。
なぜ「考えること」と「悩むこと」が問題になったのか?
そもそも、普段生活をしていて、多くの人にとって「悩む」ことと「考える」ということを分けて考える経験は少ないでしょう。
ボク自身もその一人でした。
ボクは、小学校から大学まで「バスケットボール選手で一流になろう」と奮闘してきましたが、叶いませんでした。
まさに、小学校から大学までバスケットボールを通して一貫して「バスケットボール選手で一流になろう」という目標があったわけです。
ここまでで、ボクがバスケにおいて悩んだことは、ありませんでした。
当時、周りの人で何をしたらいいのかわからないという人を理解できませんでした。
けれど、高校から大学まで自分がどうやったら、バスケ選手で一流になれるかが見えない状態が続きました。
この時期は、何も知らなかったので不安と言うよりも、焦燥感に駆られると言う感じでした。
高校ではとにかく目の前のことに一生懸命取り組んでいました。が、大学では目の前のことに一生懸命取り組んではいたものの、自分の成長イメージが持てませんでした。しかし、そんな中でも一生懸命やれば、目標を達成できるということを信じていたのです。
大学で目標が叶わなければバスケットをやめようと決心していたボクは、卒業後は就活をして、ある程度の出世階段を上がっていくんだろうなぁと考えていましたが、当時のボクにとっては、それが全然楽しくない人生に感じてしまったのです。
今は、そんなことはありません。
バスケットボールをやめるなければ、いけないという決断が現実的に迫ってくる中、大学在学時に本格的に自分自身でビジネスや、勉強を始めました。
いろいろな経験を積むためにも、夜の業界にも参入して常識を学んだのもこの時期です。
このふたつを始めた理由は、大したことはありません。
周りにビジネスや勉強をしている人がいたのと興味があったからです。
けれど、ここからがボクの人生の中で、一番不安定な期間になります。
不安定な心を紛らわしたいがために、不安定な心を忘れるように目の前のビジネスに没頭しました。
すると、ある一つのことが見えてきました。
ビジネスでは、目標を明確に定義して、目標を達成するために中間目標を作り、最終的に自分が今しなければいけない作業の量と質、時間までを決めます。
その際、目標を達成するやり方が見えない場合は、目標自体を変えてます。
もしくは、やり方を探る…と言ったことをします。
これらの考え方を本で読んだり、人から聞いて、自分で試してみて、自分がサッカーで失敗している原因が明確にわかりました。
目標を達成するためのやり方がわからなかったからです。
目標自体を定義せず、やり方自体もわからない中で、ただただ頑張っていただけなんです。
これでは、目標なんて達成できないのは当たり前です。
そこから私は目標を達成するための様々なやり方を学ぶことが必要だと感じて、別の大学でビジネスの勉強をすることを選択しました。
そして、別の大学に入る前と入ったあとを含めると、3年間ひたすら勉強をしていました。
この大学での生活は、通信制だったので、時間を有意義に使うことができたことがありがたかったですね。
ずっと、世界的に何か大きなことをやりたいという気持ちを思っていた私は大学院が1年終わる頃、自分は一体何をしたいのかを考えるようになりました。
しかし、
以前と違うのは、きっとボクと同じように悩んで考えていた人が過去にもいるはずだと気づいていたことです。
そこで、様々な起業家の本や哲学などの本を読みました。
さらに、社会人の方や他の学生、両親など様々な人の話を聞きました。
そこから、またひとつ見えてきたことがありました。
私自身が今考えていることは一般的な答えはでないものであり、これは悩みであるということがわかったのです。
それから、ボク自身は、自分の人生で何を成し遂げたいかを以前よりも具体的にすることができました。
以前と違うところは、ボク自身が目的と手段の違いをはっきり理解したことでした。
つまり「悩む」と「考える」の違いをはっきりと分けることができたということです。
すると「悩む」と「考える」ということはどちらか一方が欠けてしまうと目的を設定できない。
もしくは、目的を達成することもできない。
このような私自身が望まない結果になってしまうことに気づきました。
以上が私の「悩む」と「考える」に対する考え方の変化です。
ざっくり、まとめてみるとこういう感じです
以上の対比は「悩み」と「考える」でしたが、ちなみに、これらの対比は、こんな感じでしょうか?
- 「哲学」と「科学」
- 「理想」と「現実」
- 「目的」と「手段」
こういう感じに捉えることもできます。
話を戻しますと、ボク自身は、ビジネスを通して、やり方の重要性に気づき、勉強を通して、目的の重要性及び価値判断の重要性に気づきました。
そして、この経験を通して、ボクは「考えること」以上の「悩むこと」の重要性について述べさせていただきました。
どちらにも、長所や短所があるのです。
だから、どちらか一方という考え方ではなく、適切な場面での使い分けや組み合わせることが重要だと思っています。
以上が、ボクの主張です。
すでに文章がくどいのですが、文章の構成上、特に主要でないところは省いたつもりです。
その点はご注意ください。
さらに、考えるということについて厳密に考えた場合、単純に手段として考えるのは議論を単純化するために使っています。
人が考える時に使う方法は「演繹」・「帰納」・「創発」(仮設形成・仮設的推論とも)というものがあります。
その点もいつか整理していきたいと思います。
今回は、以上で終わりたいと思います。
さて、明日もがんばりますか。
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