今日は、午前中からバタバタと打ち合わせの連続。
ボクの経験値をフルスペックに使ってくれる人がいることに本当にありがたいわけで。。。
しかも、このコロナ禍でも、いい結果と流れが出来てきたとお話をいただくと、本当に嬉しいですね。
今日は、ほとんどオンラインでの打ち合わせ。
最後の打ち合わせは、リアルな現場での軽い雑談混じりでの、打ち合わせでした。
突然ですが、スピリチュアルな世界に興味を持つきっかけというのは、大半の方が現状に対する不満や、不安からなんでしょうか?
スピリチュアルな教え、ワークを実践することで、幸せになりたいと思うからでしょうか?
なんなんでしょう?
いいことも起きますし、ついていないことも起きる、それが人生ではないでしょうか?
そう、その繰り返しが人生だと思うんです。
美空ひばりさんの愛燦燦という曲にこんな歌詞があります。
雨 潸々と この身に落ちて
わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして
人は哀しい 哀しいものですね
それでも過去達は 優しく睫毛に憩う
人生って 不思議なものですね風 散々と この身に荒れて
思いどおりにならない夢を 失くしたりして
人はかよわい かよわいものですね
それでも未来達は 人待ち顔して微笑む
人生って 嬉しいものですね愛 燦々と この身に降って
心秘そかな嬉し涙を 流したりして
人はかわいい かわいいものですね
ああ 過去達は 優しく睫毛に憩う
人生って 不思議なものですねああ 未来達は 人待ち顔して微笑む
人生って 嬉しいものですね
そもそも「いいことばかり」を願うことがナンセンスなのです
真面目に一生懸命に生きているのだから「報われるべき」、、この気持ちも分かりますし、社会はその「報われたい」気持ちを逆なでするようなことが多すぎます。
ですから、不条理に憤るのも仕方ありません。
でも、自分の力ではどうしようもない不平不満を並べても何ひとついいことはありません。
『では、自分なら(今)どうする?』ということ集中して、ひとつひとつ実直に行動すれば、そこから起きる出来事の連続に応じるだけで十分なのです。
物事に対していちいち「スピリチュアル的に」などという解釈を用いるということは、他者の論理、誰かからの受け売りで物事を考えているということになり、一貫した自己・自我の意識を放棄する行為です。
自分の一貫した自己・自我の意識さえ確立していれば、自分の思考と感情に向き合うだけで良いのです。向き合って選択して行動するだけで良いのです。そこには無理がなく、後悔もなく、在るのは「自信」です。”自分を信じること”です。
そのような重大なことに気づかないまま、スピリチュアルに囚われてしまうのは何故でしょうかね?
ま、ただですね…
幸せになりたいという思いが強ければ強いほど、そうではない方向に行くといいますか?
そう思うということは、裏を返せば、ようは、今は「そうじゃない」という状況だという心理が深層には隠されているわけです。
引き寄せの法則関係の本に、そんなこと書いてありますよね。
だから、幸せになりたい、という思いが強ければ強いほど、深層心理では自分に「私は不幸せだ」と言ってるようなものだったりするわけです。
だったら、「 どうやって幸せになるんだよ 」というご意見が当然あると思います。
ボクも、実際には、そういう風に思ったこと何度もありますが(笑)
多くの人って、幸せになることの条件が高すぎるんですよ。
幸せになるには、貯金がこれぐらいあって、こんな仕事をして、友達がいっぱいいて、彼氏彼女がいて、結婚して、家族がいて、新築マンションに住んでetc・・・とか、条件付けすぎなんじゃないでしょうか?(笑)
条件は多くこれほど多くなくても、ひとつやふたつは何らかの条件を設けているはずです。
それを手に入れるまでは、そこに到達するまでは自分は幸せになれないよね?と自分でルールを決め、幸せになることを後回しにしているか、拒んでいるだけなんじゃないでしょうかね?
その条件を一切無くしてみるのが一番早いんじゃないのって思うわけです。
自分で決めたルール、高く上げてしまったハードルを、ゼロにしてみればいいのにって思うわけです。
幸せって物質的な要因、外的な要因で決まるものじゃないですよね。
条件付けを無くしたとき、いまこの瞬間、幸せになるんじゃないかって思います。
あっ、今日も素晴らしい出会いになりました。
ではでは…
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