人は、多くの体験からしか学べないから失敗を恐れずに積極的にチャレンジし体験すること

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さて今回は、今流行りの「ボランティア」「ボランティア精神」についてなんです。正直、ボクはこの言葉が大キラいなんです・・・というと、誤解を生むかもしれないで先に言っておきます。

ボランティア活動自体や、それをやられている人に対しては何とも思っていません。日本で一般的にされているボランティアの捉え方がキライなんですよね。

IMG 1083 - 人は、多くの体験からしか学べないから失敗を恐れずに積極的にチャレンジし体験すること
急遽のお声がけで移動です

今日は、急遽の打ち合わせで移動しなくてはいけなくなり、これは「ボランティア」なのか?と個人的に疑問をもったので、いろいろ考えてみたんです。

なぜこのような考えになったかといえば、そもそも「ボク自身がボランティアがキライだった」というところからのスタートでした。

実は、この出だし。

以前にも書いていたことがありまして。

https://koichan8888.com/archives/1086

人は体験からしか学ぶことができないというのが、ボク自身の中の真理です。

優秀な方はそうでないかもしれません。

ところが、少なくともボクは体験からしか学ぶことのできない人間です。

ここボクが定義する学ぶとは、自分のものとして身につけるという意味です。

例えば、書籍を読む、セミナーに参加するといったことだけでは学ぶことはできないと考えています。

特に成功体験や、失敗したいわゆる”イタい”体験から学ぶことが多いのではないでしょうか?

最近だと、よくわからない集団宗教や、スピリチュアルの世界で金稼ぎを考える人も多くなっているのが事実で、ま、とある一定のご年齢をいかれた方々がハマっている傾向が増えてるというお話は、以前ブログにも書かせていただきました。

https://koichan8888.com/archives/869
https://koichan8888.com/archives/1064
https://koichan8888.com/archives/1071

結構、意外とウケてたみたいです。

自分自身が体験した成功や失敗はよく覚えていると思います。

前は、これで成功したから今回もこうしよう。

前は、これで失敗したから今回はこうしよう。

などと以前の体験から学び、先の選択を行うことも多いはずです。

自分の体験が、元になっているので、違和感なく受け入れられます。

他人にアドバイスをもらって、その時は、それが正しそうだと思ったとしても、自分の体験ではないので、結局は自分の体験から学んだことを優先したという場合も多いのではないかと思います。

なぜ、人は体験からしか学ばないのか?

単純に忘れてしまうからです。

書籍を読んで感銘を受けたり、セミナーを受講し、ためになる話を聞いたとしても、それが体験できなければ、自分には当てはまらないこととして、印象が薄れ、そのうち忘れてしまうのです。

例えば言語の習得でみると、みなさんは日本語を書籍等から学んだでしょうか?

日本語が話される環境の中で、日本語に触れる体験をすることで自然と身に付けました。

ボクたちは中・高(最近は小学生でも)と英語を学習しましたが、それだけで英語が話せるようになったという人はほとんどいないと思います。

英語が話せる人は、英会話スクールに通う、留学する等、実際に英語を見聞きし体験できる環境で学び身に付けたのではないでしょうか?

ボクは、血筋で外国人の血が流れていながら、英語はさっぱりなのです。

外国語を習得する際、その国に行くのが最も手っ取り早いと言いますが、日常的に体験できる環境に身を置くからこそ早く身につくのです。

ボクの知人に、高校3年間を英語圏の国に留学し、大学から日本に戻ったという人がいます。

留学開始時は英語は全く話せなかったそうですが、留学で英語力を身に付け、海外の高校を卒業しています。

日本に帰国後は英語に触れる機会はあまりないそうですが、帰国後、10年近くたった今でも、忘れていることも多いとのことですが、ビジネスレベルで通用する最低限の英語力はあるようです。

体験により学んだことは、劣化はするものの、そう簡単にきれいさっぱり忘れてしまうということはないのです。

学びとは実践し体験すること

きっかけは書籍でも、セミナーでも何でもよいのです。

テレビで見て興味を持ったでもよいと思います。

書籍、セミナーで感銘を受けた、テレビを見て興味を持ったで終わらず、それを実践したり体験する機会を設けるとよいかもしれません。

それで成功しても失敗しても、それはその人だけの学びとなると思います。

若いうちは失敗を恐れず、年をとってもそれまでのものに凝り固まらず、多くのことに積極的にチャレンジし体験することで、新しい学びを得ることができ、新たな自分になれるのかもしれません。

なぜ、ボランティアがキライという話

以前の記事にも書きましたが、ボランティアには「無償で」という枕言葉がついてきます。

この無償というのが、色んな場面で人と人の関係をややこしくしているように思います。

無償とは報酬ゼロということですが、友人関係だからこそ悩ませるワードでもあります。

言葉には出てきませんが「○○やってくれる?」と友達から言われると、その後ろには「無償で」という言葉がカッコになって存在しています。

ボクもWEB制作を生業としていますので、よくお願いされます。

しかし、これは本当に良くないです。

もちろん、本当にイヤな時はボクも断りますし、本当にやりたい時は無償でやると自分から言います。

今、関わっている教育関連のことは、全て無償でやっているって感じです。

しかし、友人という関係だけでその一線を越えてしまう人が多すぎます。

まぁ、気づかない内に誰かにやっているのかもしれませんし、その意思をしっかり相手に伝えない自分も悪いのですが。

無償とは、自ら出費してでもやりたい時に使われるもので、むしろお金もマイナスになることの方が多いです。

つまり、無償でお願いするということは、相手の時間とお金を減らす行為なのです。

その重さを、多くの人が気づいていないフリをしているように思います。

自分がやりたいかどうかだけの話。

これを他人や周囲をどうこうするのはおかしな話という事です。

最近、話題の子ども食堂も同じ。

子どもが貧困だとか、経済格差があるとか、教育格差があるとか決めつけているのは、頭のイカれた大人だと思っています。

だからボクは、ボランティア活動をしている人が偉いとも素晴らしいとも思いません。

変な言い方ですが、当たり前と思っています。

それを周りが、素晴らしいとか見習うべきとか言うからおかしな方向にいくのです。

その人はやりたくて、進んでやっているのだから、ほっとけばいい。

それを見てやりたいと思ったなら、黙って一緒に加われば良い。

それを周囲に知らせるのは何の目的なのか?

うーん、やっぱりボランティアって言葉はキライだって話なんです。

前に書いてある文章よりも、今回はトゲトゲしいかな。

さ、今日もがんばろう。

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