昨日から、京都に来ています。


あけましておめでとうございます…の初めての挨拶をして、そこからバスに揺られて、こちらの場所へ。

京都に会社を設立するための手続きにきました。
なんか夢と希望がいっぱい詰まってるんですよね。
さて、そんなこんなで、昨日アップしたブログが異常なぐらい反応があったので、続きを書いてみたいと思います。
世の中で「人に期待しないほうが結果的に幸せになれる」というような主張は多い

世の中で言われる「期待しない」ということは、なんだか一種の諦めのようにも感じます。
最近やっと、「人に期待しない」ということができるようになってきたので、「期待しない」ってどういうことなのか書いていこうと思います。

レストランで注文したメニューがきちんと出てくるとは限らない

たとえば、ファミレスでカレーライスを頼んだとしましょう。
店員さんはハンディを使って注文内容を入力します。
その注文内容を厨房のスタッフが確認して、調理をします。
出来たカレーライスをホールのスタッフが運びます。
この作業がスムーズにできて、やっとカレーライスが自分の手元に届くのです。
「注文したらそのメニューが出てくる」
これが当たり前と思いがちだけど、この時点で「人に期待している」状態が発生していると思うんです。
店員さんが注文を受けた際に操作ミスをしていたら、厨房にオーダーが通らず、待っていても料理はずっと出てきません。
厨房のスタッフがカレーライスが苦手なメニューで何回作ってもうまくできなれば、料理はずっと出てこないのです。
カレーライスは完成しているのに、それに誰も気づかれなかったら、料理はずっと運ばれてきません。
- 「操作ミスする店員なんてありえない」
- 「苦手なメニューがある厨房のスタッフなんてありえない」
- 「料理ができてるのに、それに気づかないなんてありえない」
そう思うかもしれません。
でも、その考えの根本には「これくらいのことはできるでしょう」と、他人に期待している部分があるからだです。
もし、このファミレスが大手チェーンではなく、学生の文化祭程度のお店だったら、どうでしょうか?
店員が大学生だったら、高校生だったら、小学生だったら、幼稚園生だったら・・・
このように年齢層を下げていけば下げるほど「だったら出来なくてもしょうがないかも。仕方ないかな」という気持ちになるのではないでしょうか?
これも一種の固定概念かもしれないけれど、年齢が若いほどできることは少ないから、期待する内容や実現度も甘くなる傾向があると思うのです。
連絡したからといって返信が返ってくるとは限らない
LINEで“既読スルー”という言葉があると思うんですけど、“既読”がついてるだけスルーされてないってことをわかってないといけません。
本当のスルーっていうのは、なんのリアクションもないことです。
「読んだら必ず返信する」
なんて誰が決めたルールなんだろう?
ふと自分の固定概念に気づくと、期待しないという考えに近づけると思うんです。
LINEなどの連絡だけの話ではなく「自分が何かしらアクションをしたら周りもリアクションするでしょう。
「リアクションして当たり前だ」という考えも「期待」の一種なのではないでしょうか?
特に一番多いのは、家族・恋人など近い存在とのトラブルは、他の記事で書いたように
人間関係のストレス
1.やってほしいことをやってくれない
2.やってほしくないことをやられる
など相手の期待外れの行動から発生することが多いと思うのです。
相手に期待しつつも関係がうまくいっている時は、たまたま相手の言動が自分の期待と同じだっただけで、自分の期待に応えてくれていたという勘違いを捨てる必要があります。
関係が悪くなった時には、ただ相手を責めるんじゃなく、相手にどんな期待を抱いていたのか自分自身と対話し、その気持ちを相手と冷静に話し合ったほうがいいのです。
期待していたことが自分勝手な内容だったり、相手からしたら期待されたことも気づかないような状態であれば、相手と話し合うことよりも自分の考え方を改めたほうがいいのです。
期待しないということは、自分が当たり前だと思ってることに気づき、その考えが間違っていることに気づくこと
冒頭にも書いたとおり「期待しない」という言葉では、なんだか諦めているような感じを今でも受けます。
でも「この人だったらこれくらいして当たり前でしょう」という自分で決めた尺度で、他人を見ていないでしょうか?
人間関係で感情が動く時、だいたいが“期待を裏切られた時”。です。
すなわち“当たり前だと思ってたことが覆った時”なのではないでしょうか?
この“当たり前”という感情は、誰かが期待通り動いてくれなかったというような言動だけの話に留まらず、存在自体にも繋がる話です。
ずっと一緒にいると思っていた人が亡くなることは、ある意味「ずっと一緒にいると期待していた」ということです。
「期待しない」ということは、自分が当たり前だと思っていることが実は間違っていることに気づくことだと思うのです。
相手の言動がどうだとか以前に、その人が自分と関わってること自体が当たり前じゃないんだと気付ければ、自分勝手に期待して一喜一憂することはなくなるんじゃないかなと思ったのです。
とりあえず「人に期待しない」ようになったらどうなったか?
2020年から2021年にかけて『人に期待しない』努力をいろいろなパターンで試してみました。
前向きな努力というか、実験というか、テストというか、いろいろなことをやったので、摩擦が起きたのも事実です。ただ、良い面もたくさんありました。
・イライラしなくなった
全員に対しては、まだまだできていないけれど、人に期待しないようになってきました。
以前の私は、特に仕事で「なんでこんなことも出来ないんだよ」と他人に対してイライラすることが多かったと思うんです。
なぜ、そう思っていたか根本を自分で考えた結果、
- 自分の能力で他人を判断していた
- 期待していることが高すぎた
- 仕事は完璧にこなすのが当たり前という固定概念があった
こんな感じですかね?
それでやっと、他人にイライラさせられているのではなく、自分の考えや着眼点によってイライラすることを選んでいることに気がついたのです。
・感謝の気持ちを自然と伝えるようになった
家族が家事してくれることや、仕事でフォローしてくれることは当たり前じゃないと気づけたら、自然と感謝の気持ちが持てるようになり「ありがとう」と相手にきちんと伝えることが増えました。
やってくれて当たり前って思ってなかったとしても、なかなか毎回お礼を言えてないこともあります。
自分がお礼をきちんと言えていないことを見つけて、言葉で感謝の気持ちを伝えるようにすると、結果的に自分の気持ちもあたたかくなるのです。
・リアクションを期待しているような言動はやめた
他人からのリアクションを期待して行なっている言動は、行なった後にリアクションが無い場合や想定外のリアクションだった場合、確実にマイナスな感情を生み出すことにも気づけました。
だから、心から「やりたい」「やってあげたい」という言動しかしなくなりました。
完璧に理解できるはずもない他人の価値観に合わせた言動は、自分らしさを無くしてしまう。
「私がこれをやったんだから、あなたはこれをやって」という考えで行なった言動なんて、押し付けがましいし、自分を殺していることにもなります。
他人に期待する前に、まずは自分に期待する!
「人に期待しない」という発想は、とてもむずかしくて、まだ完璧ではないのですが、人に期待する前に、自分に期待するようにしています。
「他人へ期待する前に、自分ができることはなんだろう」
このように自分ができることに注力すれば、少なくとも期待を裏切られたといって落ち込むことはないと思います。
期待を裏切られるというのは、裏切られたわけではなくて、相手が相手の思ったように行動しただけです。
他人はあくまで他人で、自分の思い通りに動く人間じゃないのです。
コントロールはできないという前提のなかで、自分がどれだけ何ができるのか?と考えてみて、自分ができることをやりきっていれば、期待を裏切られたという気持ちではなくて「やるだけのことはやった。仕方ない」と思えるのです。
変われるのは自分だけ。
当たり前だと思い込んでることに気づいて自分を変えていけば「期待しない」ということができるようになるのかもしれません。
ではでは。
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