もしかしたら、日本人は昔から「損得勘定」ではなく「忖度勘定」で動いてきたかもしれない

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ふと、何気ない打ち合わせの帰り道。

違和感だらけのモヤモヤとした気持ち。

なんだろう、この気持ち。

損得勘定で動いたわけでもないのに、なんか違和感があったのです。

なんだろう、この感覚。

気分がスッキリしないのです。

いつもの自分でない感じというのでしょうか?

なんとも言えない感覚に陥りました。

損得勘定?

忖度感情?

ちょっと思いついたことをまとめてみたいと思います。

日本国民は「損得勘定」ではなく「忖度勘定」で動く

100万人が住む大都市といわれた江戸はおおむね武家階級が50万人、町人が50万人という比率でした。それなのに、江戸の7割方は武家屋敷という環境は、必然的に長屋の密集化をも意味し、まさに安政五年に大流行したコレラは「長屋クラスター」を発生させたのでした。

文章を読んで頭で理解するより、古地図を見れば一目瞭然、町人たちが息を潜めてお侍さまに気を使っている空気感がはっきりと可視化されたような心持ちになりました。

ここで、さらに想像を広げてみます

つまり、町人たちがその頃から忖度し合うような空間こそが江戸の町で、まさにそれがこの国の中心地であり続けてきたからこそ、忖度意識が醸成されていったのではないか、と。

世界史上まれにみる「無血革命」的な明治維新が達成されたおかげで、江戸の町のレイアウトが変わることなく新時代に移行されたということは、江戸の町の地勢、空気、匂いも、そのまま受け継がれたことを同時に意味します。

「お上に気を配る」という「忖度」姿勢はシステムが変更されたとしても継続されることになったのではないでしょうか。まして明治以降の中央集権国家となればそんな首都の影響は全国に及ぶはずです。

つまりわれわれ日本人は、官僚のみならず全国民が「損得勘定」ではなく「忖度勘定」で動く国民なのかもしれません。

落語「目黒のさんま」からみる「行き過ぎた気遣い」

ここでなんですが、落語で「官僚の忖度」が面白く描かれている作品があります。

名作「目黒のさんま」です。

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あらすじはこちらです。

隠無邪気な殿様が「目黒」まで鷹狩りに出掛けた際に、家来が弁当を忘れてしまいました。空腹を堪えられそうにない殿様のもとに、さんまを焼く香ばしい香りがただよってきます。たまらず殿様が食べたいというと、家来は「下々の庶民が食べる下魚(げうお)ゆえお口には合いません」と答えます。殿様は「よいから持って参れ」と無理やり持ってこさせます。そのさんまは、「隠亡焼き」という乱暴な直火焼きでブスブス音を立てているシロモノ。普段食べている上品な料理とは真逆だったのですが、たまらず一口食べてみると、その美味さに感激してしまい大好物となってしまった。

以来、殿様はさんまが夢にまで出てくるほど恋しくなってしまう。

ある日、身内が集まる際、なんでも好きなものを注文できることになり、殿様は「さんまが食べたい!」と言い出します。しかし下々の魚など準備してあるはずもなく、困惑した家来は慌てて日本橋の魚河岸から新鮮なさんまを買ってくる。それを「脂が多いと殿様の身体に毒だ」「骨が喉に刺さると一大事だ」といった「行き過ぎた気遣い」で脂も骨も抜いた味気ない吸い物に調理して差し出します。殿様がほのかなさんまの匂いを嗜みながらも一口食べると、まったく美味くない。

「これはどこで手に入れた?」と家来に尋ねると「日本橋魚河岸でございます」と返ってきたので、殿様はこういいます。

「ああ、それはいかん。さんまは目黒に限る」

ちょうどいまの深まりゆく秋の季節にうってつけの噺ではありますが、この「目黒のさんま」のお殿様を「政治家」に、家来たちを「官僚」に置き換えると完全に現代の政治にもつながります。

そして、まさにそのまんま焼いたものほどおいしいはずの旬のさんまから、脂を抜いたりするなどの「行き過ぎた気遣い」が「忖度」に相当することに気付くはずです。

いい忖度、悪い忖度とは何か?

実際、殿様に万が一のことがあれば、家来は切腹を申しつけられるなどのかなりのストレスがあったはずでしょうし、今の時代とは比較にならない部分をカットしても見事に符合するのが実に面白いと思いませんか?

かような捉え方をすると、確実に古典落語が現代に生きるのではと確信します。

忖度に該当する行為が「自分の保身のため」なのか「トップを思いやってのこと」なのか、いずれにしても大切なのは、そこなのかもしれません。

と、ここまで記事を書いてきて思うのは、もしかしたら落語自体の楽しむということ自体が「忖度」なのでは?という仮説にたどり着きました。

下半身の動きを制御し、しかもほぼ会話のみで話を進めてゆく落語は、お客さんが、「ああ、いま酒を飲んでいるな」とか「きっと与太郎がしくじるぞ」みたいなある程度「その先を想像する」という「忖度的な想像力」が前提となっているともいえます。

「次はこうなるぞ」という登場人物の言動を「忖度」することで楽しみが倍増する作りこそが落語の根本であるともいえるのです。

武家屋敷にほとんど占領された江戸の狭い町並みで、相手の顔色を伺いながら細やかな神経を張り巡らせて生きてきた江戸っ子の想像力トレーニングの成果および結晶として、落語が出来上がったという見方をしてみると、あながち「忖度」も悪くはないものだとしみじみ感じてきます。

「忖度」には「いい忖度」と「悪い忖度」があるのかもしれません。

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ふと、そんなことを感じた一日でした。

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