人は相互にレッテルを貼りあい、貼られたレッテルに基づく役割を演じあいながら生きている

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今日は、朝一のフライトで東京に来ています。

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人は、貼られたレッテルに基づく役割を演じさせられながら生きています。

レッテルとは

●レッテル〘名〙 (letter)
 文字。
 商品名・発売元・内容などを表示して商品にはりつける紙の。商標。
 ある人物や物事についての断定的な評価。「不名誉なレッテル」

デジタル大辞泉「レッテル」の解説

レッテル を 貼(は)
一方的にその人物の人格や能力などの格づけをする。
※春興倫敦子(1935)〈福原麟太郎〉主知主義的会食「リードさんは大体、主知主義といふレッテルをはられてゐるやうだけれど」

デジタル大辞泉「レッテルを貼る」の解説

人は常に、人に対してこのレッテルを貼る行為を行っています。

さて、今日は、レッテルについて考えていこうと思います。

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卵かけごはんがでてくるまでの間にネタを書きます

例えば「あの人はまじめそうだ」などのように、人に対して持つ印象などもレッテルを貼るという行為の一つです。

レッテルは主観に基づくもの

レッテルはあくまでも主観に基づくものなので、それが事実と一致するとは限りません。
よく犯罪を犯した人について、近隣住民の人がインタビューに応えていることがあります。
「まじめそうで、挨拶もきちんとするし、とても犯罪を犯すような人には見えなかった」というような回答をしているシーンを一度は見たことがあると思いますが、ここには”挨拶をするまじめそうで、犯罪を犯すような人ではない”というレッテルを貼っていたが、実際には犯罪を犯しているという、レッテルと事実の不一致があります。

レッテルと事実の不一致

レッテルと事実の不一致は日常的に起こっていることです。
レッテルは自分の主観に基づき貼るものであると同時に、他者がどういう人かということを詳細かつ完全に理解することは不可能だからです。

レッテルの改変

一度貼られたレッテルを改変させることは容易ではありません。

レッテルは主観に基づき貼られるので、貼られたレッテルを改変させるには、相手の主観を変えなければなりません。

主観はその人の、それまでの経験等により形成されているものですので、これをこちらの意思で意図的に変えるのは困難です。

貼られたレッテル以外のこちらの情報を提示していくことで、レッテルの改変は可能だとは思いますが、情報を提示する機会と、提示した情報を受け入れてもらうだけの関係が必要となります。

なぜレッテルを貼るのだろうか?を考えてみた

レッテルを貼らなければ、他者を理解できないからであり、単純に楽だからだと思います。レッテルは貼った人から見た、相手の特徴といえます。

人は相手がどういう人かわからないと不安になるものです。

どういう人か理解しないと、関わり方がわからないからです。

”不審そう”というレッテルを貼れば、できるだけ関わらないようにするでしょうし、”人が良さそう”というレッテルを貼れば積極的に関わるのではないでしょうか。

このように貼ったレッテルに基づき、人との関わり方を決定しているのです。
楽だからと言ったのは、他者を理解しようと思うと相当な時間と労力をかけて、相手に関わらないといけないからです。

自分の周囲の人すべてにこれを行うのは不可能ですから、主観に基づくレッテルを貼って、その人がどういう人か自分なりに理解し、関わり方を決定しているのです。

人は貼られたレッテルに基づく役割を演じている

レッテルは貼った人からみた相手の特徴であり、そういう人であってほしいという、ある種の期待でもあります。

自分がレッテルを貼り、こうだと思っていた人物像と異なっていた場合、良くも悪くも驚き戸惑いますよね。

だからそういう人であってほしいというある種の期待でもあるといえるのです。

その期待は当然他者も持っているものです。

他者も自分に対して、こういう人だというレッテルを貼り、こういう人であってほしいというある種の期待を持っているのです。

自分自身はその期待を裏切れば、他者を驚かせ戸惑わせてしまうということを知っていますし、それが他者をがっかりさせてしまう場合もあることを知っています。

だから、他者の期待に応えようと、他者が自分に貼ったレッテルに基づく役割を演じてしまうのです。

例え悪いレッテルを貼られた場合であっても、悪いレッテルに基づく役割を演じてしまうことは多々あると思います。

悪いレッテルとは異なる、良い言動を行ったとしても、悪いレッテルが前提となっていると素直に受け入れてもらえないことが多いからです。

例えば、”非協力的だ”というレッテルを貼っている人がいるとします

その人が、積極的に何か協力してくれた場合、自分の貼ったレッテルは誤りだったとする人は少ないのではないのでしょうか?

”非協力的だ”というマイナスのレッテルが前提となっていると、積極的に協力してくれたとしても、”普段は非協力的なくせに、今日だけ協力して何なの”とか”非協力的なくせにでしゃばるな”とか、否定的に捉えられてしまうことが多いです。

そのため、変な波風を立てないために、悪いレッテルであっても、それに基づく役割を演じてしまうのです。

レッテルと自分探し

ちょっと中二病くさいですが、本当の自分とは何かとか考えることも時にはあると思います。

自分探しという言葉をよく耳にしませんか?

自分探し的なことをする時は、周囲の人に貼られたレッテルと自己のイメージが異なって、自己のイメージと異なる役割を演じてしまっている状態なのかなと思います。

本当の自分を見つけたと思っても、相手が一致するレッテルを貼ってくれるとは限らないですからなかなか難しいですね。

本当の自分で自分らしく生きたいのなら、他者を完全に無視するか、自分が望むレッテルを貼ってくれる人のみと付き合うしかないのかもしれません。

最後にまとめてみます!

人は相互にレッテルを貼りあい、貼られたレッテルに基づく役割を演じあいながら生きています。

かくいう私はレッテルを貼る人、その貼ったレッテルを周囲にまき散らす人が大嫌いです。

レッテルを周囲にまき散らされることで、そのレッテルが伝染し、周囲の人が自分に対して、まき散らした人と同様のレッテルを貼ることで、自分の役割が制限されてしまっているように感じるからです。

本当にやめてくれという感じです。

ただ、レッテルを貼るということ自体は自分もやっていることなので仕方がないのかなといった諦めも持っています。

少なくともレッテルを周囲にまき散らしたり、まき散らされたレッテルに影響されないよう、自分なりにレッテルを貼っていこう、一度貼ったレッテルを柔軟に改変できるよう、人は多様性を持っているんだということを心にとめておこうと思います。

ちょっと、今日は勢い良く書きすぎて長くなってしまいました。

さて、ご飯も来ましたので、ここらへんで。

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さて、明日もがんばりますか。

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