昨日は、叶えたいと思うと叶わない、というお話をしました。
こういう話をすると決まって、それじゃ、夢や希望はもってはいけないんですか?
欲望は、すべて捨てた方がいいんですか?
こういう質問をされる方がいます。
ここがまた、誤解されやすいところなんです。
スピリチュアルの誤解
スピリチュアルの理解が中途半端な人が、先生気取りで教えると、思いっきり間違えるわけです。
欲を捨てなさい! とか、平気でデタラメを言っちゃうわけです。
欲や願いを捨てたら、社会は終わりです。
欲があるから、おいしいご飯が食べられるし、スマホも使えるわけです。
スティーブジョブズさんが無欲な人だったら、この世にスマホなんてありません。
スティーブジョブズさんが、スマホを作りたいって強く願ったから、スマホが存在するわけです。
願いと現実の関係
願いを叶えたいと思ったら、その叶えたい状態が現実に投影されるから、かえって叶わないんじゃないかと。
その話しは、間違っていません。
願いを叶えたいと思ったら、叶える前の状態が実現されるので、本当に叶いません。
それじゃ、スティーブジョブズさんは、どうやってスマホを作ったのか?
そんなんもん、自分の手足を動かして作ったに決まってるじゃん!
念力でスマホを作ったわけないでしょ。
頭で考えて、部下に命令して、試作を繰り返して、やっと完成したんですよ。
空からスマホが降ってくるわけがない。自力で作ったに決まっているわけです。
スピリチュアルと実践のバランス
スピリッチュアルが大好きな人は、こういう点がすぐに抜けてしまいます。
なんでもかんでも、頭の思考だけで解決しようとするからです。
でも、本当は、ボクもスピリッチュアル大好きですから。
スピリッチュアルが大好きでなければ、番外編ブログなんて書きません。
現実を変える力は自分にある
この世は、自分の脳内のイメージが投影された世界です。
言ってみれば、幻なわけです。
だから自分の脳内イメージさえ書き換えてしまえば、世界は一瞬で変わります。
ただね、いいですか。
脳内イメージなんて回りくどいことしなくたって、現実は簡単に変えられます。
自分の手を動かせば、目の前の物は動かせます。
自分の足を動かせば、どこへでも好きなところへ移動できます。
自分の足で移動すれば、目に映る光景はすべて変わるわけです。
現実なんて、自分の行動で一瞬で変えられるわけです。
願いと行動の関係
人は欲を持ち、願いを叶えたいと思いました。
でも、叶えたいと思えば思うほど、願いは叶いません。
そこで人間は、自分の意志で手足を動かすことにより、願いを叶えてきたのです。
その行動によって、豊かな暮らしが実現され、スマホだって存在するわけです。
こうやって、社会はどんどん良い方へ、発展してきたのです。
スピリチュアルと現実の調和
スピリッチュアルなんて必要ないじゃん、って思うでしょう。
それはね、実は正解なんです。
スピリッチュアルなんてカケラも考えたことのない成功者って、山のようにいます。
スピリッチュアルなんて全然知らなくても、誰でも幸せに生きることはできます。
でも、そこはね。
ホラ、神様って実はちょっとお茶目だと思うんですよ、ボクは。
自分の頭で考えて手足を動かせばいいんだけど、頭がいい人ってほんの一部ですよね。
みんながみんな、自分の頭で考えてテキパキ行動できるわけではありません。
一生懸命に考えてやっているのに、うまくいかない人もいっぱいいるわけです。
欲望と幸福の探求
そこで神様は、そういう人のために「スピリッチュアル」を用意してくれたわけです。
この世が完全なる実力社会だったら、おもしろくないと思いませんか?
恵まれない環境でも、運命の大逆転で頂点に登り詰める話しがあったほうがいいじゃないですか?
そのほうが、行動できないすべての世界人類が楽しめるわけです。
神様は、すべての人に平等に幸せになるチャンスをくれています。
欲望と幸福のバランス
で、結局は欲を持たないほうがいいのか?
それとも欲を持ったほうがいいのか?
こういう事になるわけです。
その結論は、場合によって使い分けましょうってことです。
まず、自分のすべての欲を捨てたらダメです。
すべての欲を捨てたら、魅力のカケラもない、フヌケのような人間になります。
何か夢を目指してがんばっている人って、カッコイイじゃないですか?
そういう、当たり前の感覚を忘れてはいけません。
欲を捨てなさいと言ったお釈迦様は「世界を平和にしたい」って願いがあったんです。
欲を捨てなさいと言ったキリストは「世界を愛で包みたい」って願いがあったんです。
お釈迦様もキリストも、そういう願いを実現するためにがんばっいるから、みんなに慕われたんです。
だから、夢や願いをすべて捨てたら、本当につまらない人生になりますから、やめましょう。
願いの使い方
それならば、どんな場合に願ってよくて、どんな場合に願わないほうがいいのか、という事になります。
それは、楽しいかどうかということを、自分の心の声で判断するのです。
願うことが楽しいと思うなら、願えばいいのです。
願うことが苦しいと思うなら、願うのをやめればいいのです。
たとえば、女性にモテたいとします。
女性にモテるためには、身なりをキチンと整えて、おもしろいことや素敵なことを言ったほうがいいでしょう。
一番簡単なのは、お金持ちになって、いばらずに、優しくしてあげることです。
身なりやファッションを気にするのは、楽しいですよね。
それなら、ユニクロ二に行って服を買い、鏡の前に立って研究すればいいんです。
そうやって手足を動かして、女性にモテるようになり、願いを実現すればいいわけです。
ところが、ある一人の女性に思いを寄せているのに、女性が振り向いてくれないとします。
ファッションに気を使おうが、どんな言葉をかけようが、避けられる日々が続くわけです。
こうなると、どんな行動をしても、苦しみしかありません。
それだったら、女性に振り向いて欲しいという願いを捨てた方がいいですよ、ってことです。
お釈迦様もキリストも、すべての欲を捨てなさい、なんてことは言っていません。
苦しみから逃れるために、欲を捨てなさいと言ったのです。
楽しみまで捨てなさい、なんてことは一言も言っていません。
楽しみを捨てたら、人間じゃなくなります。
楽しい欲や願いを持って行動し、苦しくなったら、欲や願いを捨てるんです。
欲や願いを一律にすべて「善か悪か」で判断するから、おかしなことになるのです。
欲や願いを持つべきかどうかは、善悪で判断してはいけません。
欲や願いを持つべきかどうかは楽しいかどうかで判断するんです。
スピリッチュアルが好きな人は、まじめな人が多いです。
まじめな人は物事を、善か悪か、正しいか間違っているか、で判断しがちです。
そうじゃありません。
欲とか願いを持つかどうかは、楽しさ基準で判断してくださいということではないでしょうか?
さて、明日もがんばりますか。
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