さて、今日は、午前中から打ち合わせでした。
昨日のちょっとした違和感から、一夜明けて、いろいろモヤモヤした気持ちを整理してみました。
子どもが育っていくことにおける「子どもの教育」には、子どもの「自主性」を大切にしなければいけません。
子どもに自主性が育たなければ、それはいつまで経っても独り立ち出来ないことを意味します。
そもそも「自主性」とは何でしょうか?
自分の判断で行動する態度。 「 -に欠ける」 「 -を生かす」
引用 – コトバンク「自主性」
たった一言ですが、要は、やるべきことやりたいことを自分で判断し、自分の判断に基づいて自ら行動するということです。
さて、子育ての目的。
あくまで基準ですが、子どもが成人するまで育て、そして子どもが自立して独り立ち出来るようにするということが上げられるかと思います。
そして、子どもの自立・独り立ちを育むには、子どもの自主性を育て、尊重していくことが大切になっていきます。
子どもが小さいうちは、親が手取り足取り教え、フォローしながら見守っていきます。
しかし、いつまでも親が面倒見たり、何事も指示したり出来るわけではありません。
幼稚園や小学校に上がるころには、自然と子どもの自主性もどんどん発達していきます。
子どもに対して「自主性」という言葉を意識しなくても、いつまでも親が「あぁでもない、こうでもない」と指示しなければ何も出来ない子どもに育ってほしくないし、子どもが成長すればするほど「自分の考え」で行動してほしいと思うことでしょう。
「何度言ったらわかるの!」
「いい加減言うこと聞きなさい!」
こういうセリフが、マジでダサい。
子どもの自主性を伸ばす、子どもの自主性をつぶす
子育てにおいてよく言われる言葉に「褒めて育てる」というものがあります。
この対極には「叱る」というのもありますが、本来は「褒めて育てるか」「叱って育てるか」という対極関係ではなく、それぞれに役割が違うはずなのです。
まぁ、それは置いといて「褒めて育てる」という目的には、子どもの「自主性」を育てる要素があります。
子どもが何もわからないなりに、自分のやりたいこと、または良かれと思ったことを判断し、それを実行したときに、結果はどうあれその「自主性」を褒めて育てるといったところでしょうか?
ですので、褒めて育てると言っても、その行為の「結果」に対して褒めるというよりは、その行為・自主性を褒めてあげるべきです。
褒めずに「結果だけ」に着目し過ぎると、子どもは何となく親の「作り褒め言葉」に喜びが薄れ、肝心の自主性がそがれていってしまうかもしれません。
このように子どもの「自主性」を伸ばしたいのであれば、「結果」ではなく「行為」に目を向けてあげなければ…と思うのです。
親のお手伝いをしたいがために、お皿を運ぼうとしたら落としてしまった。
そんな時に「危ないから余計なことをしないで!」「よそ見してるから落とすんでしょう!」「はいはいありがとう。でも今度は自分でやらずに呼んでね!」と言うことありませんか?
楽しく絵を書いているときに、壁や書いてはいけない紙に絵を書いてしまった。
そんな時に「ちょっと何やってるの!」「ちゃんと紙を用意してあげたでしょう!」って言ったりしませんか?
勉強したがらない子供が自ら勉強していても成果がでないとき、「きちんと集中しないからだ!」「本当に真面目にやってるの?」って言ったりしませんか?
これらは、ちょっと意地悪な嫌な感じを出した例ではあります。
また、当然ながら、注意することが悪いわけではなく必要なことでもあります。
日々、子育てに忙しいお母さんなどは言いたくて言っているわけではないでしょう。
ただ、そういったこととは別に、子どもの「自主性」を育てるには、注意だけではなく、行為も一緒に見てあげることも必要だということです。
このように「叱るときは叱る、褒めるときは褒める」でも良いですが、「叱る箇所は叱る、褒める箇所は褒める」といったところです。
難しいですけどね・・・
子どもの自主性なくして、子どもの成長ありません。
子どもの意図とは別に、親の言いなりばかりであれば、そこに自主性はなく、成功しても失敗しても感じることは親の顔色だけかもしれません。
子どもの自主性を伸ばしたいなら大人としての自主性を見せる
子どもの自主性を伸ばしたい、大切に成長させたいのであれば、上記のような気遣いや注意も必要ですが「大人としての自主性を子供に見せる」といったことも重要かと思います。
生活の身近なところで言えば、
- 部屋の片づけ
- お着替え
- 出かけるときの準備
- 歯磨き
- お風呂
- トイレ
- 食事
- お絵かきやモノ作り
こんな感じでしょうか?
子どもに対して、「アレやりなさい、コレやりなさい」「上手にできるようになろう」「いい加減片付けなさい」「早くしなさい」「きちんと出来るでしょう」などと言う場合があります。
これはこれで良いのですが、子どもには厳しく言うけど、大人が自主的にそれらをやっていない、もしくは、敢えて子どもに見せていないことはないでしょうか?
子どもから見たら、どのように映っていると思いますか?
- 親が部屋を片付けているところを見たことがない
- 親が歯を磨いているところを見たことがない
- 親が楽しそうに出かけるところを見たことがない
- 父母両親が楽しそうに会話しているところを見たことがない
こんな感じで、大人、親の行動が見えないわけです。
やはり「子どもは親の背中を見て育つ」という面は確かにあるかと思います。
大人は、子どもにとって身近な一番のお手本でもあります。
大人の自主性を持った姿を「敢えて」見せるということも、とても重要だということです。
この大人の自主性を子どもに見せるというものは、何も生活範囲内や教育うんたらだけの話ではなく、親の仕事、家事、趣味、遊びにも通じるかと思います。
大人が自ら楽しそうに日々を過ごし、大人が新たな趣味や遊びにチャレンジしたり、些細なことであっても楽しそうに自ら動く、このような大人の行為も、子どもの「自主性」を育むことにつながることでしょう。
前文でも書きましたが「子供は親の背中を見て育つ」というのは、もちろん全てではありませんが、とても大きな影響があると思っています。
むしろ言葉だけで言って行動が伴わない大人と、言葉数は少ないが大人の自主性をしっかり子供に見せている方が、よっぽど教育に良いことなのではないでしょうか?
さて、これからいつもお世話になっている社長からのご紹介で、新しい京都の伝統を学びにいきます。
どんな展開になるのでしょうか?
さて、明日もがんばりますか。
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