今日は、よく言われていることです。
大阪から移動して、京都に来ています。
そうです、宮古島の報告会。
参加してくれた子どもがリーダーとなって報告会を主催してくれるわけですが、その中で起きたことがありまして、それは、子育てにおける「過保護」と「過干渉」についてだったわけです。
今回は、そのことを記事に書きたいと思います。
昨今の子育ては、過保護よりも過干渉が盛んになっていると世間では言われています
ボクも同意見なんです。
うるせぇよ…ってなります。
ボクは、バリバリ反抗していたし、世間を斜めに見てたし、バカにしていたんです。
過去の話を引き合いに出してくるなって、いつも思うわけです。
その代表的なことで言うならば、この記事です。
はい、こういうことです。
そんなことを踏まえて「過保護」と「過干渉」でも、子育てで親御さんが注意していること、気をつけようとしているのは、どちらかというと「過保護」の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?
- 「子供を甘やかしたらわがままに育ってしまう」
- 「何でも子供の欲求を満たしてあげたら自律が出来なくなってしまう」
子供を甘やかさないようにしなければ、なるべく厳しくしよう。
その結果、気がついたら、実は「過干渉」になってしまっている。
そんな親御さんも増えている気がします。
実際に、親御さんに聞いてみます。
「趣味ってなんですか?」
この質問に、ほとんど回答がないのです。
とは言っても、この質問に回答ができないというのは、何もボクたちだけの世代の話しではなく、ボクたち親の世代にも言えることではあるかと思います。
「過保護」が良くないという勘違い
過保護とは、一般的には子供の欲求のほとんどを満たして上げ、子供を甘やかすことと言われています。
では、なぜ過保護が良くないと言われているのでしょうか?
- 過度に甘やかすことによりわがままに育つ
- あれも欲しいこれも欲しいと子供の欲求に際限がなくなる
- 大人になっても甘ったれが治らない
- 甘えが取れないからいつまで経っても自律できない
ざっとこんな感じではないでしょうか?
これって、あくまで未来予測の話ではないでしょうか?
ボクの考えとしては、上記のような甘ったれに育つ人間というのは、実は過保護が原因ではないと思うのです。
実際に、このように思われる方が多いようです。
大きくなっても、わがままや甘ったれの原因というのは、過保護であるかどうかというのもあるかもしれませんが、それよりも「親の無関心」が原因であるのです。
子どもは、本能的に親の愛情を欲しています。
そして、親の愛情により、子どもは健やかに育つと昔からよく言われています。
この子どもに対する親の愛情が薄いと、育児放棄的になるか、もしくは逆に何でも与えてその場をしのごうとする「過保護的な行動」になるかのどちらかではないでしょうか?
つまり同じ「過保護的な行動」であったとしても、親の愛情があるか?または、親の無関心かにより、子供に対する影響は正反対になるということでではないでしょうか?
このように考えると、一般的に「過保護は子どもをダメにする!」と言われているのは、実は、後者の「親の無関心」が原因であったと思います。
では、親の愛情があれば過保護でも問題ないのか?というと「全く問題ない」とボクは思っています
実際に子どもは、子どもの世界観があるから、そこに世代の違う人が侵食するのは違うんですよね。
むしろ、小さいうちに子どもの欲求を満たしてあげれば、子どもは満足して過度に欲求をすることはなくなってくるということです。
いつまで経っても、大人になっても欲求が収まらないというのは、先に書いた「親の無関心」が原因のひとつにあり、いくらモノを与えても、子どもは満たされないということです。
子どもが本当に欲しいものはモノではなく、そのモノを通して、または、モノなどではなく、親の愛情を感じて満たされるということだと思うのです。
子どもがお母さんのオッパイを欲しがれば与えればいいし、子どもが抱っこを要求すれば抱っこしてあげればいいし、何かを欲しがれば出来る範囲で与えればいいと思います。
ただし、何でも子ども優先というわけではなく、親の思いは思いとして率直に子どもに伝えることも大切です。
例えば、経済的に無理のあるものを欲しがっている場合は「買えない」ことをきちんと伝え、代わりに手作りにチャレンジするとか、抱っこしてあげたいけど大きな荷物を持って無理な時や体が弱くて難しいときは、家で座ってなら出来ることを伝えたりなどです。
無理のない出来る範囲での「過保護」であれば、ボクは大いにやってあげるべきだと思います
そして、それらの過保護は「子どもの自律」の妨げにはならどころか、逆に子供の心が満たされ、より充実されて成長していくのではないでしょうか?
ちなみに、危険なこと、人としてやってはいけないこと、これらは「しつけ・教育」の問題であり、過保護とはまた違った性質のことなので、それらと混同しないで読んでいただければと思います。
さらに言うと、子育ての成果・結果という目に見える形というのは、タイムラグが生じます。
今すぐに結果が出るというわけではないのです。
つまり、子どもを大切に過保護に育てたとしても、その時は子どもの甘えが瞬時に消えるわけではありません。ですが、何年も経って子どもがどんどん成長してきたときに、徐々にその効果(親の愛情によって満たされている心)が現れてくる気がします。
それを実感できるかどうかは、また別ですが…
ここは、すごく見極めが難しいところではあります。
注意しべきは「過干渉」なのではないでしょうか?
さて、「過保護」と「過干渉」はつい混同されがちではありますが、その性質はまったく異なるものです。
ボクも、教育業界に関わるようになって気づいたことなんです。
親による子どもへの過干渉が周りの家庭を見てもとても多いと感じているのです。
過干渉とは、その名のとおり「過度に人に干渉すること」です。
この過干渉は、大いに子どもの「自律」の妨げになります。
一般的な子どもへの過干渉の例を言うとこんな感じではないでしょうか?
- 子どもが欲求していないことに良かれと思い口を出す
- 必要以上に子どもの言動に口を出す
- 先回りして良し悪しを植えつける
まぁ、似たり寄ったりの例になってしまいました。
「過干渉」の何がいけないかと言うと、まずは子どもの考えや思い、意見を無視して干渉するということです。これは子どもへの「無関心」にもつながります。
そして、ここで難しいのは「しつけ」と「過干渉」の境です。
しつけは、もちろん大事です。
子どもに口を出したくなくても、しつけの一環として口を出さざるをえないことは当然あります。
子どもの意見だけを尊重するわけにはいきません。
それは、もちろん大事なことであり、親としてやっていかないといけないことではあります。
しかし、ここで言う「過干渉に注意」というのは、親の考えや、価値観を過度に植えつけようとすることです。
人は誰だって性格や考え方、価値観は異なります。それは親子だって同じことです。
過干渉の危険な要素は、その親の価値観を子どもに植えつけようとし、親の価値観に反すれば注意して正そうとしてしまうことなのです
更に過干渉を例えると、こんな感じになります。
- ごはんを食べるのが遅いから「早く食べちゃいなさい」と言うのはいいが、早く食べるように手伝ったりしてはいけないんじゃないでしょうか?
- 食べる順番をいちいち指摘したりするのも違うのではないでしょうか?
- 今日は、暑いから「こっちの服にしなさい」と言うのはいいと思いますが、それを過度に強要したりするのも違うんじゃないでしょうか?
- 子どもがたいして興味がないのに、親が良かれと思うことで遊ばせたり、習い事をさせたりするのも違うんじゃないでしょうか?
全てにおいて必要以上に強要する、誘導するのは違うと思うんです
特に害のない子どもの言動に対して、親が不愉快に思うことは止めさせようとしたりしていませんか?
何かにつけ、あーしろこーしろと指示をしたりも違うのではないでしょうか?
この例でいうと、「しつけ」「過保護」「過干渉」の違いが何となくわかるのではないでしょうか?
これらは「しつけ」でも「過保護」でもなく、ただの「過干渉」です。
「過干渉」でよく言われているのが、親の子どもに対するマインドコントロールです。
その結果、子どもは何が良くて、何が悪いかの基準を正しく理解することが出来ずに、親の顔色が基準になってしまうのです。
ですので、何が危険かと言うと、子どもは、自分の考えで行動出来なくなる恐れがあると言うこと。
子どもの価値観で、良し悪しを判断することを認められず、親の価値観が優先されてしまうということなんです。
これでは、子どもの「自律」が育たないのは当然ではないでしょうか?
しかし、この手の親御さんは、なぜ子どもが自律できないのか?が理解できてない場合が、本当に多いなぁ…って思っています。
結果的に、更に親の干渉が増える。
そして、子どもの自律は、更に遠のくという悪循環が生まれてしまっているのではないでしょうか?
いかがでしたでしょうか?
この手の話は、さまざまな意見や考え方が出るところだと思います。
ですので、あくまでボクの個人的意見と思っていただきたいです。
子育てに正解はなく、親や子どもの性格や育つ環境によってさまざまです。
結局のところ、この記事で言いたかったことは、「過保護」「過干渉」「しつけ」は、似たような感じだけどもまったく別ものであるということです。
そして「過保護」がダメと言われる性質には、実は大きな、大きな誤解があるということです。
「過干渉」と「しつけ」の違いを区別出来ずにいる親が本当に増えているだなぁ…ということを感じた一日でした。
さて、明日もがんばりますか。
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