それにしても、京都駅すごい人だな。
徐々に人が外に出ているんでしょうか?
とてもいい感じに街がなってきているように感じます。
さて、人を見る目に自信があると自負する人がいます。
特に多いのがスピリチュアル界隈のお花畑の人たちが多いかもしれません。
いや、マジで気持ち悪いなぁって思うんです。
まぁ、言葉には出さなくても、人を見る目に密かに自信を持っている人もいることでしょう。
人を見る目に自信がある人は、人のことを批評したがる人が多いです。
そして、人の批評をしたがる人ほど、人を見る目に自信があると自負していますが、こういう人の言うことに、耳を傾けてはいけません。
人を見る目に自信がある人は、たいてい人を見る目がありません。
人を見る目に客観性はない
人が人を見るときに、客観性というものは存在しません。
誰もが、自分の主観に基づいて人を見て、その人がどういう人かを判断しています。
それぞれの主観に基づいて人を見ますので、その人なりの見方、つまり偏見が必ずあります。
そのため、同じ人を見ても、見る人が異なれば、その人の特性も異なります。
例えば、口数があまり多くない人を見て、”暗い”と評する人と、”落ち着いている”と評する人がいるようにです。
これは、どちらかの見方が誤っているということではありません。
見る側からすると、どちらも真実です。
同じ人でも、「暗い」と評する人から見れば、その人は暗い人ですし「落ち着いている」と評する人から見れば、その人は落ち着いている人なのです。
それぞれのものの見方が異なるというだけのことなのです。
人を見る目に自信を持つ人は、異なる見方ができない
上記のように、人の特性というのは、見る人によって異なりますので、人は多様な側面を持つ生き物だと言えます。
しかし、人を見る目に自信を持っている人は、人の多様性を容認できません。
人を見る目に自信を持つということは、その見方が絶対的に正しいと思っているということです。
自分の見方が絶対的に正しいと思っているのですから、他の見方を受け入れることができず、否定します。
それぞれの見方が、それぞれにとっての真実なのですから、本来、ものの見方に誤りというのはありません。
しかし、人を見る目に自信を持ち、その見方が正しいと思い込んでいる人にとっては、他の見方を受け入れるということは、自分の見方が誤っていると認めることになるからです。
そして、自分の見方が正しいと主張するために、人のことをやたらと批評したがるのです。
人を見る目に自信がある人は、人を見る目がない
上記のことから、人を見る目に自信がある人は、自分の見方に固執する人と言えますので、人の多様性を認めることができません。
つまりは、自分の見方という一面だけでしか人を見ることができませんので、人を見る目がないと言えます。
一方で、人を見る目に自信がない人は、他者の見方も比較的素直に受け入れられますから、多様な視点から人を見ることができますので、人を見る目に自信がある人よりは、人の多様な側面を見ようとするという点で、人を見る目があると言えます。
ともすると、人を見る目に自信がない人は、他者の見方を受け入れやすいぶん、人を見る目に自信がある人の意見に流されがちになります。
この点は注意が必要です。
人を見る目に自信がある人の言うことが正しいのではなく、それも一つの見方にすぎないこと。
自分の人の見方も誤りではないこと。
多様な視点で見てこそ、その人の理解につながるということを忘れてはいけないような気がします。
伝わりましたでしょうか?
人を見る目に自信がある人は、あたかも自分の見方が正しく、自分の見方が全てであるかのように、人のことを批評します。
これは自分が正しいと主張したいがためにやっていることで、その見方が絶対的に正しいわけでも、全てでもないのです。
人を見る目に自信がある人に流されて、人にレッテルを貼り、そのレッテルに基づく役割に閉じ込めてはいけません。
よろしけれは、「人は相互にレッテルを貼りあい、貼られたレッテルに基づく役割を演じあいながら生きている」の記事もご覧いただければ嬉しく思います。
そんなことを考えながら、晩ごはん前にブログを書いてみました。
さて、明日もがんばりますか。
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