他人に気を遣うという生き方は人生を狂わせるだけなんじゃないか?と思う

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とある霊媒師というか、スピリチュアルというか、謎のオンラインサロンに参加したときに言われたことがあります。

本音を言い過ぎじゃない?

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その時に食べた食べ物まで記憶にあるぐらい
モヤモヤした瞬間と、怒りが込み上げた瞬間

この言葉にめちゃくちゃモヤモヤしたこと、本音で生きれない人を喰い物にして商売している人間がいるんだなぁ・・・って、今でも鮮明に覚えていますし、今でも虚業ビジネスに勤しんでいるみたいです。( たまに、よくわからない勧誘が界隈から回ってくるので、適当に対応しています )

前回の記事にも『うつ病』になった話を書きました

https://koichan8888.com/archives/4823

それは、初めての離婚というものを体験したときだったでしょうか?

問題が起きている片側だけの意見を鵜呑みにして、もう片側の人間の話を聞かないという最悪な正義の味方が現れたときのパターンです。

誰しもが、自分の中の「生きづらさ」を覚えるひとつとして、人に合わせ過ぎるところがあると思うんです。

人に合わせすぎるということを考えてみました。

  • 人にいい顔をする
  • よく思われたいから何でも引き受けてしまう
  • 優しくしてしまう(間違った優しさ)
  • 気を遣い過ぎてしまう
  • 人の顔色を窺って行動するようになる

こういうようなことが挙げられると思います。

なぜ「人に合わせ過ぎているから息苦しい」という考えに至ったのか?ということです

それは、そういう行動をした後に残る心の中の変なモヤモヤ感を感じ取ったからです。

以前のボクは、そういう気持ちすら感じないようにしていたところもあるのかもしれません。

これは「人に合わせ過ぎていた」というよりも「人に対して強く出れない気弱な自分」がいるのかも?と勘違いをしていました。

しかし、どうもそうではないらしい。

確かに気弱なところもあるのだけれど「気弱」というよりも「自分の意見が持てていないから従っているだけ」という、流されやすい生き方をしていました。

もし、自分の意見を持っていれば「私はこうしたい」「私はこう考える」という交渉が出来るはずなのです。

でも、それが出来ない。

出来ないということは自分の意見が無いのです。

考えがない。持てない。

ボクは、一体どこにいるのでしょうか?

それは「迎合」なのか「気を遣っている」だけなのかってことです

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「周りに気を配るのが上手い」
「人の気持ちを察知して相手に不快な思いをさせないように気を付けることが出来ている

ボクは、そういう生き方が出来ていると思っていた。

だけれどそれは、ボク自身の心に「疲れ」を招いていたのです。

出来ていたのではなく、無理をしていたんですね。

他人の思考を「想像しすぎてしまう」のです。

当たっているとも限らないのですが・・・

そして、それが「生き方のクセ」になってしまっているために、止めようとすると「自分は優しくない人」だと脳が思ってしまうらしく、また、人に対しての「過剰な気遣い」をし始めるんです。

された方も、最初はいいのかもしれないけれども、毎回それが続くと「異常な気遣い」に不信感を抱いていることでしょう

それは「さりげない気遣い」だったら「気を遣っている」だけなので、相手も気兼ねなくそれを受け入れてくれるだろうし、大人として適切な対応が取れていることでしょう。

しかし「過剰な気遣い」は「私はあなたのことを意識していますよ」「いつも見ていますよ」という受け手として気持ち悪がられるであろう行動になってしまうのです。

多分・・・ですけどね。

そして、過剰な気遣いは「相手に気に入られたい」「相手に嫌われたくない」という意思の表れでもあるのかもしれません。

そして、その問題は「迎合」なんじゃないかって思うんです。

そもそも「自分の意見を持つこと」が出来ないので、他人の意見に「そうだねー」って言って合わせている方がとても楽なのではあると思うんですが、自分の意見が無い為に、他人の軸に振り回されやすいわけです。

迎合を始めると、表面上は仲良くなりやすいが本音で付き合うことは出来ないし、何より他人にいいように扱われれてしまうんじゃないでしょうか?

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ま、実際に「そういう単純な薄っぺらい付き合い」を体験したから、見たきたからわかることでもあるわけです。

迎合の良いところは「最初のとっつきやすさ」だけでしょうね。

仕事を例に取って考えてみたいと思います

  • 「迎合する」
    →「気に入られる」
    →「仕事をなんでもやってくれると思われる」
    →「過剰に仕事が集中する」
    →「心身ともボロボロになる」
  • 「迎合する」
    →「気に入られる」
    →「仕事をなんでもやってくれると思われる」
    →「過剰に仕事が集中する」
    →「断り始める」
    →「ケンカになる」
    →「人間関係が壊れる」

こういうようなルートが出来てしまい、どちらも良い結果を招かない。

気を遣って相手に合わせているうちに、どんどん相手のペースに飲まれていき、気が付いたら取り返しのつかないところまで来ているんじゃないでしょうか?

迎合する生き方は、自分の本音を殺している

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まず「迎合」する生き方を知らず知らずのうちに取っている場合は、もうその時点で、その生き方が常態化しているので「自分の本音」を探すことがとても難しくなっていることが多いと思うわけです。

しかも「自分の本音」どころか「自分の考えが何もない」状態になっていて「本音」を探すことすら出来ないでいると思います。

そうなると「自分がない」「自分はからっぽ」という虚無感に襲われるのです。

自分の本音は一体どこにあるんだろう?と深い苦しみを味わうことになるわけです。

また、自分の意見を持てていて、それを相手にぶつけた時の相手からの反応もまた「恐怖」だったりするんですよね。

ボクは、まったくないんですけど・・・

そもそも「恐怖」とは思っていないのかもしれないが「瞬間的にやってしまった」と思うことも多々あります。本当に瞬間湯沸かし器みたいなところがあるんで・・・

それは「相手の意見との食い違い」でも同じことがいえます。

自分の意見を述べた後にされる、相手の意見や批判が過剰に怖いのです。

個体が違うのだから、意見が違うのは当然なのだけれど、批判されたり、相手の意見を受け入れられないようなことでも「譲歩」という意味不明な型に嵌ってしまい「迎合」を行ってしまう場合が多々あるわけです。

本音を合わせた「譲歩」なら良いのだけれど、本音を殺した「譲歩」は譲歩ではないって思っています。

迎合する生き方をするようになってしまったきっかけについて考えてみた

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迎合するようになってしまうきっかけとは、一体どういうところから始まるのでしょうか?

一番手っ取り早く思いつくのは「親からのしつけ」なんじゃないか?って思うわけです。

以前にこんな記事を書いたのも、それがきっかけだったかもしれません。

https://koichan8888.com/archives/4672

悪いことをすれば怒られる、口を聞いてくれない。

こういうことが学校教育の中で、未だに蔓延っているんじゃないかな?って感じることがあります。

自分の家系で言うのであれば、そもそも育ての父は外国人だし、母は沖縄の伝統を受け継ぐ人。

このようなしつけを受けていたらしいので、伝承されているのは当然です。

そして、自分にも攻撃的な部分はあったので、こういうことをされると反抗したくなる。

反抗すれば、めちゃくちゃ殴られて抑圧される。

物置に閉じ込められようものなら、物置を壊すくらいの勢いで中から破壊を始めたり、過剰に叱られようものなら、家の中の物に当たって癇癪を起していたのも思い出します。

その頃から、自分自身の性格の変化、荒くれ者になる片鱗が現れたのかもしれません。

お互いのエネルギーのぶつかり合いが激しくて、エスカレートして行ってしまったのかもしれません

同世代の他の家庭の子育てがどういうものなのかは詳しくは知らないんですが、うちの親はこんな感じでした。なかなかの毎日が修行というか、精神と時の部屋というか・・・

そして、知らないうちに「親の顔色を窺う」ということを刷り込まれてしまうわけです。

違った形で何が良くて、何が悪いのかを感じ取るようになってしまうわけです。

親の機嫌をとることもしているのかもしれない。

無意識ですけどね。

親にとっての「良い子」とは「なんでも言うことを聞く子」「自分から勉強をする子」じゃないでしょうか?

悪い言い方をすれば「親にとっての都合のいい子」なのかもしれません。

操り人形。

いつから・・・というと「いつ」という年代や、日付がある訳ではないが、徐々に、知らない間にそういう人間になっていったとも思い返されるのです。

もちろん、これが全てではないだろうし、これ以外にも思い当たるようなところがあれば、いずれまた書き出してみたいとも思います。

迎合すると、自分も人も見失ってしまう

迎合の良いところは、先にも挙げたが「最初のとっつきやすさ」じゃないでしょうか?

何とも人当たりが良く感じられます。

本当は人見知りなのに。

誰とでも仲良くなれてしまう気がしてしまう。

しかし、それは本当に最初の頃だけです。

ある程度付き合いが長くなってくると、人となりが分かってきます。

そうすると、実態が無いような空を掴むような存在で芯がないことが分かるのです。

あの人の本音は、どこにあるのだろうか?と気味悪かったりするんですよね。

本人的にも「どう思っているのか」を本音でぶつけることが出来ないわけで、循環ができなくなってしまうわけです。

そもそも「何も思っていない(と感じている)」から意見がないので、発することが出来ないこともあるわけです。

どこまでが「迎合」で、どこまでが「協調性」なのかの境目の基準も分からなくなっている人ってたくさんいたりします

自分の立ち位置を見失っている人ってめちゃくちゃいます。

これ、マジでよくあるパターンで勘違いしているのかな?って思う人います。

ま、ある意味で協調性が無さ過ぎるのも、日本社会ではハブられます。

日本人は多数決主義者が多いので、誰かが言い出したら、それが間違っていたとしても「同じだと思う」・・・みたいな空気をすぐに作り出すのがプロな人種です。

Yahoo!!コメントなんかは、その代表格だと思ったりします。

これこそ「迎合」と「協調性」をはき違えていて、何が正しい行動なのかが分かっていないんじゃないかな?って思ったりもします。

そもそも「こういう人だ」という個性も消えているから伝わらない。

相手からも不審がられ(この不審感が個性と受けられる?)接し方が分からなくなるらしく離れていく。

どういう人なのか分からない。

つまりいてもいなくてもどっちでもいい人。

もしくは、不気味で近寄りがたい人。

相手にしたくない人。

そういう人になってしまう。

もうひとつ言うならば「迎合」の弊害は「人を見抜く力」を養うことが出来ないこと

相手に合わせようとすることは、相手のすべてをOKだと受け入れることに他ならないのです。

正しいことも、悪いことも、全てがOKになってしまうんです。

自分の「正義」が曲がってしまうのです。

そうなってくると「悪いタイプ(自分とは合わないタイプ)の人」でも正しいと受け入れることになり、振り回されます。

近寄ってはいけない人にも近寄ってしまう。

疲れませんか?疲れるんですよ、マジで。

もちろん、傾向の度合いによって、振り回され度合いも違ってくるのだけれども、ボク自身、どのくらいのレベルの迎合度合いで、どのくらい振り回されるのか客観的な位置づけで、自分を見ることは出来ていないって思っています。

まずは「自分がどう感じたのか」ということを積極的に感じていくこと

最近、ボクは、気を遣うことを減らし始めている・・・っていうか、気を遣っていない。

気を配ってはいるが、気を遣っていないのです。

ボクが気を遣わなくても、他人は勝手に行動する。

過剰な気遣いは監視されているとも取られてしまうかもしれない。

必要な時だけ気を遣うことが出来ればいいのかもしれない。

そのポイントを見極めれるか、どうかが今後の課題でもあるように思うんです。

  • 自分の意見をもつこと
  • 相手の意見との違いを認めること。
  • その後に自分はどうしたいかを考えること。

この三点を気を付け始めるようにしています。

今はまだなかなか出来ないんですけど。

意見を言い過ぎて失敗してしまうこともあります。

瞬間的な反応として、出来るようになるまでには時間が掛かるかもしれません。

今までは瞬間的に迎合していたのだから、そのクセのままだと迎合が続きます。

一呼吸おいて考える時間を自分につくれるようにしなければならないなぁって思います。

でも、とりあえず失敗してもいい。

」「自分が」「どう感じたのか」ということを大切にして生きることをしていかなければいけない。

「他の誰かが喜んでくれる」のは良いことだけれども「自分の意見を殺して」まで「相手を喜ばせようとする」のはただの自己犠牲なんじゃない?って思ったりもします。

自分は幸せじゃない。だから辛いんだろうね。

お互いが幸せでいたほうが、マジでいいって思う。

さて、今日はユダヤのビジネスモデルの勉強のために、奈良県まで。

ますます面白くなりそうです。

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