生きていれば辛いこと、悲しいことが必ずあるわけです。
大人になれば、楽しいことばかりなんてあり得ないのです。
むしろ、年齢とともに現実の厳しさがよくわかり辛いことだって増えていくはず。
なのに、「大丈夫。大丈夫。」って思いこんでいることってないですか?
そんなことないんですかね?
子どものころは、誰でも、自分に正直に感情をぶつけていたはず
子どものころは、きっとみんな感じたままに感情を出していたんですよね。
赤ちゃんは気持ちよければ笑うし、お腹がすいたり、おむつが濡れたら不快で泣くわけです。
不快感がなくなるまで泣くのです。
とにかく、ひたすら泣く!!!!!
「赤ちゃんは泣くのがしごと」とは、よく言ったもので・・・。
それくらい、自分の要求が通るまで、自己主張をやめないわけです。
そんなふうに、感情をぶつけることができるのは、「受け止められる」と信じているからでしょう。
不快感を取り去ってくれる人の存在を信じている。
だから、ぶつけれられるんじゃないでしょうか?
受け止めてくれる人がいないと、人間は自己肯定感が低くなる
昔ヨーロッパの研究者の間で、赤ちゃんに我慢させることが自立につながるか意見が分かれていたとき、ある実験を行ったと言われています。
深夜、欲しがったときに授乳するグループと、一切授乳しないグループに分けます。
すると、深夜授乳をしない赤ちゃんは、早い子で3日も泣くと、朝まで泣かずに待てるようになり、1週間後にはほぼすべての赤ちゃんが翌朝まで泣かないようになったらしいのです。
この結果から、我慢させることは忍耐づよい自立心を育てる、というような意見もでたようですが、追跡調査の結果、深夜の授乳を拒否された子どもは困難を回避しやすく、自分に対して、漠然とした無力感を持つ傾向がみられたのです。
赤ちゃんの育て方を実験するとは、なんとも残酷なことです。
ただ、ここから得られるものがあるとするなら、感情を素直にだすことが許された赤ちゃんでさえも、受け止めてくれる人、応えてくれる人がいなければ、自分自身をコントロールして感情を押し殺し、泣くという行為さえも無くしてしまうということなのかもしれません。
研究者から見れば「我慢強い子、自立心がある子」と判断された子どもたちは、実はとても傷ついていて、のちには相手ならずも、自分にも不信感を抱く自己肯定感を持てないようになってしまったのです。
大丈夫なふりをしていないだろうか?それは、自分で傷ついていることを認めたくないからかもしれない
大人になるにつれて、感情をあらわに泣くことってあまりなくなります。
子どものころは、人目をはばからずボロボロ泣いていたのに、思春期を迎えるとひとは泣き顔を隠すようになるのです。
「大人げない」とか「恥ずかしい」とか、他人から見た自分が気になるからでしょうか?
それでも、まだ自分ひとりの空間で思いっきり泣ける人は、自分にうそをつくことは避けられます。
泣きはらしたら、なんだかスッキリした、という経験がある人もいるかもしれませんが、自分の感情を出しきったら、次の感情にシフトできるのに、それをため込んでしまうと感情の行き場がないのです。
そのうちに「大丈夫」と感情にふたをしはじめます。
「なにも問題ない。大丈夫。大丈夫。」
このように自分に信じ込ませるうちに、癒えない傷は、そのまま見えないことにされて本当に傷があったことも忘れていくのです。
心の傷の原因をさぐり、相手との関係性の修復に取り組むよりも逃げてしまったほうが楽だからです。
傷だけで十分痛いのに、さらに、塩を塗ることなんて避けたいですよね。
痛いですからね…
痛いのは、だれだって嫌ですもんね。
「大丈夫なふりをやめる」ことが自分に正直に生きる第一歩
「わたしは、もう大丈夫」
「そう、大丈夫にきまってる」
こんなふうに、平気そうな態度をとることを、まずやめるのがいいですよね。
本当は、大丈夫なんかじゃないんです。
「私は、大丈夫じゃない!」と言っていいんです。
大丈夫じゃない自分を認めると、それはもう惨めで、悲しくて、イライラしてくるのです。
感情を押し殺して生きてこなかった自分が、感情を押し殺そうなんておかしな行動をしていたから、鬱になったのかもしれません。
でも、それは、自分に正直になっている証拠なのかもしれません。
まずは、自分自身で認めよう。
平気なふりをやめよう。
ポーカーフェイスをやめよう。
大丈夫なふりをやめよう。
感情を吐き出したあとにしか、次の感情は訪れないのです。
そうすれば、次にすべき行動が見えてくるんじゃないかって思うんです。
なんか、今日はカッコいいこと言ったかも(笑)
ではでは。
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