こういうのは、もしかしたら大ウソかもしれない。
そうです、タイトルの通り「誰が言ったかではなく、何を言ったか」を大事にする男、どうも、コイヌマ(@koichan8888)です。

そういえば、先日、こんなブログ記事を書きました。
「何を言ったか」より「誰が言ったか」が大事だということ
話を単純化して、世の中には信頼できる人(頻繁にまともなことを言う人)と、信頼できない人(いつもトンチンカンなことばかり言う人)のふたりだけしかいないとします。
そして、それぞれの人の発言は「正しい」「間違っている」「真偽不明」のいずれかだとします。
その「正しい」と「間違っている」は発言者のアイデンティティーに関係なく、聞き手(あなた)の経験・知識から判断がつくから問題ないわけです。
めちゃくちゃやっかいだなと思うのは、「真偽不明」の発言で、これは、聞き手の経験・知識の範囲内では正しいのか間違っているのか判断できないってことです。
本当は、正しいのに聞き手が未熟なために、その意味を理解できないのかもしれないし、実は、間違っていて、聞き手は「間違っている」と自信をもって結論できないだけかもしれないわけです。

ここで、発言者と発言内容の全ての組合せを考えてみると…
① 信頼できる人 が
正しい事 を言った② 信頼できない人 が
正しい事 を言った③ 信頼できる人 が
間違った事 を言った④ 信頼できない人 が
間違った事 を言った⑤ 信頼できる人 が
真偽不明の事 を言った⑥ 信頼できない人 が
真偽不明の事 を言った
・・・というの6通りで考えられると思います。
では、順番に解説していこうと思います
①に対しては「相変わらずこの人はまともだな」と感じます。
②に対しては「たまにはまともなことも言うじゃないか」(あるいは「そんな事もう知ってるよ」)という印象に感じます。
③に対しては「たまにはこういう事もあるんだな」くらいに思うわけです。
④に対しては「またアホなこと言ってるよ」と呆れてしまうのです。
ところがですよ。
⑤と⑥は、発言者が信頼できるかどうか以外に真偽を判断する根拠がないのです。
この時に⑤で「この人が言うことだから本当にそうなのかもしれない」と感じ、⑥の場合に「この人の言うことだからどうせ間違ってるんじゃないか?」と思うことはすごく自然なことだと思うのです。
自然どころか、経験で言えば(あっ、統計学のベイズの定理っていうのを使えば)そういう発言者ごとの情報の重みづけは、定量的にも正当化できるわけです。
だから、「誰が言ったかではなく何を言ったかだ」というのは、全く持って非論理的な主張だと思うのです。
例をひとつ挙げてみます
例えば、ボクが心理学に興味をもっていたとして、誰から指導を受ける、師事するか(≒だれをメンターに選ぶか)は非常に難しい問題です。
経験がまったくないボクにとって、心理学の教えを請うというのは「嘘か、本当かわからない指示」を大量に受けるプロセスなわけです。
メンターを信頼できないと「アホな指導者のせいで、自分の大切な時間がムダになっていく」という不満を抱えながら、学んでいくことになってしまうわけです。
このときに「この人の言うことには基本的に、信頼がおける」と思えないと、指導はボクみたいな性格がトキントキンの人間にとって、とんでもないストレスとなるわけです。
だから、何事においてもメンターを選ぶときは、その人を信頼できるかがとても大切になるわけです。
逆に言えば、メンターは、信頼を勝ち取らないといけないし、そのためには日々の一挙手一投足が大切になるわけです。
ま、兎にも角にもメンター、師匠というポジションのは大変なわけです。
話がそれたので、もとにもどりましょう
結論をもう一度。「何を言ったか、ではなく誰が言ったか」が重要になる場面も世の中にはけっこうある。
※ただし、いつも正しい・まともなことを言うことで「信頼できる人」という情報を発信できるわけです。
そして、その情報を適切に発信しさえすれば、社会的地位などに関係なく「信頼できる人」という印象を他者に与えることは出来るのです。
そういう意味では「誰が言ったかではなく、何を言ったか」という主張は正当化されますが・・・。
つまり、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」という言葉には少なくとも2通りの意味があると思うわけです。

ではでは。
コメント