今日は、大阪に行ってきました。
たまたま打ち合わせと、以前沖縄行きの時に搭乗でミスったときに受け取ったに余った旅行支援割のクーポンを使ってしまおうと思い、やってきました。

たまたまですが、奥さんが海外から仕事できている友達と会うので、そのお土産にいいだろうと思って、クーポンを使いに来たって感じです。
そうです、仕事でも、勉強でも、家事でも、日々の些細なことでも、それら一つ一つを無心で行えば、そこには充実感が生まれるものです。
無心で行うと充実した気持ちを感じる
この間、地域の作業でとある場所の草むしりをしました。
夏の暑い日差しを受けて雑草たちは、迷惑なほど気持ちよさそうにすくすくと育っていました。
抜いても、抜いても、そこら中に生えている雑草です。
鎌で、切っても、切っても、一向に減らない雑草です。
こういう地味であり、一見キリがなさそうに感じる草むしりでも、それを「無心」で行っていると気が付けば、結構綺麗になっているものなんです。
そして、そこには、充実感や達成感などをわずかでも感じることが出来て、なんだかスッキリとした清々しさを感じたりするものです。
こういった行為をもし「無心」でやらずに不平不満などを感じながらやっていたらどうでしょう?
- 「めんどくせぇ~」
- 「なんで休みの日にこんなことやらないといけないんだ・・・」
- 「こんなの全然終わらねぇよ」
- 「ぶちぶちぶちぶち・・・」
このような気持ちでやる作業というのは、本人からしたらきっと苦痛の時間でしかありません。
そして終わった後も充実感どころかイライラや不満を感じ、無駄な時間を過ごしたと思うかもしれません。
無心でその作業を行うということは、その作業に集中しているということであり、無心であるその時間には不平不満が入る隙もないということです。
だからこそその作業が終わった後や、無心で進めた成果を見たときに、ふと我に返り、思っていたよりも自分が達成していたことを実感できるのです。
- 「最初は、こんなの終われないと思ってたのに終われたよ」
- 「結構進んでたんだな」
- 「こんなにやってたんだ」
- 「終わってみたらなんかスッキリしたな」
例え、同じ作業であっても、無心で行うのと不平不満を感じながら行うとでは、例え結果が同じであっても、自分が得られるものには大きな差があるかもしれません。
でも、おそらく結果自体(作業量や時間)にもきっと差が出ているはずです。
これが無心で行うのではなく、逆に「楽しく」感じながら出来たのであれば、それは更に有意義で充実した時間になるのではないでしょうか。
無心でやるというこは心の喜怒哀楽に振り回されないということ
まぁ、草むしりで言えば、普段あまりやらない作業だから感じることかもしれません。
しかし、別に草むしりでも掃除でも食器洗いでも仕事でも勉強でも何でも同じなんだと思います。
仕事や家事などは草むしりと違って毎日嫌でもやっていることです。(毎日草むしりをしている人も居ますが)
特に世間一般的には多数の女性が毎日毎日家事をこなしています。
子供や学生の勉強なんかもそうかもしれません。
いつも日々行っているからあまり意識することはないかもしれませんが、365日付きまとう洗濯や食事の準備や後片付け、何年も続けないといけない仕事、日々繰り返される宿題や勉強などなど。
これらだって、やる気や機嫌よくこなす時もあれば、イヤイヤやっていたり、不平不満やストレスを感じながらやっていることもあります。
なぜ「無心」でやるということが良いかというと、このような心の喜怒哀楽に一々振り回されないようにするということです
楽しく出来ればそれは無心よりもきっと良いことと先ほど書きましたが、それはそれでもちろん理想であるのですが、人間いつでも楽しい気分でいられるわけでもないし、その分落差もあるものです。
無意識のうちに良いときと悪いときの比較もしてしまうものです。
要は心の良い悪いの状態によって、その作業の時間が左右されるということです。
人は良いときはイケイケドンドンで楽しく突き進むことが出来ますが、いざ悪いときになると様々なことに陰りが出てくるものです。
そうすると同じ作業であっても、昨日まで楽しかったものが今日には苦痛に感じたりするものです。
同じ作業であっても心の在り方によって、その作業やその時間帯の感じ方が違うというのは、当たり前と言えば当たり前なんですが、なんだか不思議なものですよね。
人間だから当たり前だし、人なんてそんなものでしょうと言われればそうなんですが、これが人の幸せ不幸せを感じるポイントなのかもしれません。
さて、結局何が言いたいかというと、「無心」で目の前の作業に没頭すれば、一々自分の心である感情に振り回されることなく、そして自ずと良い結果がついてくるということです。
感情を捨てろとかそういうことではありません。
楽しいときは楽しい、悲しいときは悲しい、辛いときは辛い、それはそれで心のおもむくままに感じればいいのですが、それよりも目の前の作業に集中するということです。
目の前の作業に集中しているとどうなるかというと、まず余計なことは考えなくなります。
心は無心になりやるべきことだけに集中しています。
集中してことを成せば、それだけ成果も上がるというものです。
逆に何かを考えているということは目の前の作業に集中していないということです。
そうすると目の前の作業も疎かになり効率も落ちまし、時間も要します。
きっと自分が思っているよりも、この無心であるかどうかの差は大きいのではないでしょうか。
上手くいかないと感じるときは無心になってみる

なんかやる気がでない、なんでボクばかり、なにか楽しいことないかな?、頑張っているつもりでも上手くいかない、こんな風に日々感じることがあれば「無心」になってあれこれ考えずに、目の前のことだけに集中してみるのも良いかもしれません。
結果などはまったく考えずに目の前のことだけを淡々とこなすイメージです。
ボクなんか大げさではなく、やる気のない日々は多いですし、さっさとやれば片付くこともあれこれ考えて時間ばかりが過ぎてしまったり、不平不満を感じながらイヤイヤこなしたがゆえに後に残ったのはストレスだけなんてこともよくあります。
しかしたまに思い出したように無心で淡々とこなしていくと、先ほどの草むしりのように仕事でも家事でも何でもそうですが、とても充実感を感じたり、あっという間に終わらせたり、普段気付けないようなことに気付けたりするものです。
それは、それだけ目の前のことに集中していたからです。
そして当然ながらそこに無用のストレスは感じることはありませんし、不平不満が湧き出てくることもありません。
こういったことは日々上手くことが進んでいるときは逆に難しいものです。
だからこそ、日々上手くいかないと感じているときに試してほしいものです。
いわゆる社会で成功している人も、日々楽しそうに過ごしている人も、きっと無意識かもしれませんが、目の前のことに無心で取り組んでいるだけなんだと思います。
その日々の差というのは、積もり積もって人生に大きな差を生むのかもしれません。
さて、明日もがんばりますか。
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