今日は、大阪のブランフロントというところに行っていきました。
改めて鬼滅の刃の作品力のすごさ、奥深さを感じます。
作品の中でも、人間関係において他者を理解することの重要性が主張されているように思います。
他者を理解しようとすること自体は悪い事ではないのでしょうが、他者を理解しようとすることの弊害もあるのではないかと、最近感じます。
人間は相互不理解
人と人は互いに分かりあえるかというのは、人間にとっての永遠のテーマといっても、過言ではないかと思いますが、様々な意見を持つ人がいることでしょう。
個人的には、人と人とが分かり合うことはあり得ないと思っています。
それは、人の本音や思考、感情などは、人間の五感では捉えきれないからです。
もちろん、他者の意見を聞くことや、表情などから感情を読み取るいうことは、ある程度できます。
しかし、それは、他者の様子を見たり、意見を聞いたりして、こちらが勝手に解釈しているにすぎないのです。
結局自分というフィルターを通すので、多少なりとも偏りが生じ、正確に他者のことを捉えられるとは言い難いのです。
また、他者だって、本音と言いつつ、嘘をついて、建前を言うかもしれませんし、表情を作って演技をしているだけかもしれません。
他者が発する情報の真偽を確かめることなんてできないのですから、他者から発せられる情報で、他者を本当に理解するということはできないのです。
これらのことから、人と人が本当の意味で相互に正しく理解し合うということはないと言えます。
漫画が原作で、以前、映画化などもされた「サトラレ」のように、思考が周囲に伝搬してしまうとか、「ガンダム」でいう「ニュータイプ」にでもならない限り、人と人が相互理解が可能になるなんてことはないと思います。
人は理解できないと、否定し排除する傾向にある
人は、他者を理解しようとして、理解できないと、他者を否定し排除するようになります。
それは、人は理解できないものには不安や恐怖を抱くからです。
例えば、初対面の人に会う時は、人見知りをしないような人でも、多少なりとも緊張感は持つものです。
それは、相手がどういった人かわからない=自分を害する可能性も全くないとは言い切れないのですから、程度は人により異なりますが、未知の人に対する、不安や恐怖心を持って警戒しているからです。
人はよくわからないものには不安や恐怖心を抱くのですから、わかろうと理解しようとして、それでも理解できなければ、より不安や恐怖心は増します。
自分に不安や恐怖心を与えるものを、そばに置いておきたいという人はいませんから、それが理解できない他者を否定し排除することにつながるのです。
他者を理解しようとせず、尊重するのが一番いいのかもしれない
他者を理解しようとして、理解できなければ、その他者を否定し排除することにつながります。
しかし、理解しようとしても、他者というのは理解できないものでもあるのです。
だから、はなから他者を理解しようとしないほうが良いのではないかと思います。
理解できないものを理解しようとして、理解できずに否定・排除するぐらいなら、初めから理解しようなどと驕らず、理解しないことを選択する。
他者は理解できないものだと認識し、理解できないからといって否定・排除することがないよう、どんな他者であっても尊重する。
そんな姿勢でいるほうが、良い人間関係が円滑に築けるのではないでしょうか?
あっ、気を使っているで言えば、この記事も書いてましたね。
最後まで、素晴らしい原画展でした。
さて、明日もがんばりますか。
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