今日は、大阪で打ち合わせに来ています。
あまり、乗り気にならない打ち合わせなのですが、万が一があるので、一度会ってみようと思い来てみたわけです。
その打ち合わせ中に、こういうキーワードが飛び出しました。
「私はわがままだから」
「私は自分勝手だから」
自分のことを自分勝手な人間だと公言する人がいたわけです。
人は、自分勝手であるのはそうなのですが…
人は誰もが、自分勝手だと主張する人がいます。
個人的には、この意見が間違っているとは思いません。
自分のことを一番に大事にでき、一番に考えることができるのは、自分だけなのですから、そういう意味では、誰もが、自分のことを一番に考えている自分勝手な人と言えるかと思います。
もちろん、それが悪いことだとか、間違っていることだとは思いません。
それが、普通、当たり前だと思います。
誰もがわかっている、当たり前と言えば当たり前のことなので、わざわざ公言したり、自分勝手であることを周囲にアピールする必要はありません。
それにも関わらず、わざわざ自分勝手であることを公言し、自分勝手であることをアピールしたがる人がいます。
何のために、自分勝手をアピールしているのでしょうか?
自分勝手をアピールする理由
自分勝手を公言する人は、上記の人は誰もが、自分勝手という以上に、自分勝手に振舞うけど許してね、自分勝手に振舞うけど協力してねと他人の理解や協力を求めているのです。
本来、人は、他者と関わる場面では完全には自分勝手には振舞えないものです。
それが、人が社会で生きていくということです。
社会の中で、自分勝手な人が嫌われることからもわかると思います。
自分勝手に振舞うのであれば、他者から嫌われ、社会から排除される覚悟が必要でしょう。
自分勝手を公言する人というのは、自分勝手には振舞うけど、それが私の特徴だから、理解・協力してねと、他者から嫌われ、排除されるのを、防ぐための防衛線をはっているのです。
例えば、職場で自分勝手に仕事をする人Aがいたとします。
こちらは、Aは自分勝手だなと思いつつも、Aを自分勝手と感じていること自体が、自分の主観に基づく自分勝手な感情とわかっていますので、ある程度までは、Aの自分勝手を指摘したりしませんよね。それで、仕事が片付いてAが「自分勝手ですみません」と言ってきたとします。
こちらはなんと答えるでしょうか?
「本当だよ。手前、ふざけんなよ!」とは、思っていても言いませんよね。
たいてい「(本当はよくないけど)いいよ」で終わらせてしまいますよね。
Aは自分勝手に仕事ができて満足でしょう。
こちらは、不満がたまるばかりでなく、表面的かもしれませんが、Aの自分勝手を認めてしまった形になるのです。
このようにして、自分勝手を公言する人は、他人を当てにし、利用して、自分勝手が許される環境を作っていくのです。
自分勝手を公言する人は、嫌われていない人も多い
普通の人は、「私は自分勝手だからよろしく」なんて、特別親しい間柄でもない限り、公言したりしません。
それを公言するということは、社会に適応できない人と自ら言っているようなものですから。
公言しているは、何故公言できるのでしょうか?
それは、関係性構築力が高いからです。
関係性構築力については、以前のブログの「学校という世界は、もしかしたら社会の縮図なのかもしれないということを今ごろ気づいた」や「自分勝手が自分勝手に見えない理由っていうのは、一体どういうことなんなんでしょうか?」をご覧ください。
自分勝手と公言しても、また、実際に自分勝手に振舞っても許される関係性を築いていることが多いので、公言できるのです。
いかがでしたでしょうか?
自分勝手を公言している人は、自分勝手を反省し、自分勝手を直そうなどとは思っていません。
自分勝手を公言する人は、それを公言できるだけの関係性を築き、さらに、自分勝手を理解して、自分勝手に協力してと言って、ますます自分勝手に振舞おうとしているのです。
受け入れれば、自分勝手を助長し、さらに自分勝手になることでしょう。
自分勝手を公言する人を見習うもよし、自分勝手に巻き込まれないよう距離を取るのも良いのかもしれません。
そんなことを思いながら、無事に帰ってきました。
さて、明日もがんばりますか。
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