さて、昨日は弾丸で東京まで行ってきました。
東京に行って、面白い計画を実行して、そこから大阪に移動して・・・
いろいろ大きく動き出してきました。
さて、いろいろ移動中に振り返ってみたんです。
どうですかね?
これまで薄っぺらい関係を築き上げてしまったなって反省と共に今日はお届けしていこうと思います。
今まで繋がっていた関係でたくさんの人が離れていきました
疎遠になったり、会わなくなったり・・・
人は、今までの人間関係が失われていく時、それをマイナスに考えてしまうことがあります。
長い間、共に時間を過ごしてきた人。
数少ない親友。
なんでも話せる人。
そういう関係性であるほど、関係が失われていくことに寂しさ、切なさ、孤独を感じてしまいます。
場合によっては、離れていったり、いなくなったりした人を、追いかけようとすることもあるでしょう。
でも、そんなことはしなくていいんですよね。
なぜなら、人間関係が失われていっても、目の前にはいつも人がいるからです
目の前の人を大切にしていけばいいのです。
ちなみに、ボク自身のことを言えば、イヤなものにはイヤとはっきりいうし、面倒なことは面倒だと伝えます。
どうですかね?
福岡に拠点を構えてからというものの、それがめちゃくちゃ明確に、顕著に現れた感じでしょうか?
自分でも笑ってしまうぐらい人が離れていきました。
いざ振り返ってみると、過去に体験したほど、あまり感情が動かないわけです。
年齢を重ねたからでしょうか?
「相手がどう思うか」を気にしすぎる人がいるんじゃないでしょうか?
日本人には「察する」という文化があります。
子どものころから「人の気持ちを考えましょう」と教えられた人が多いと思うんですが、ボクには全く理解ができなかったんです。
こういうことを経験したからかもしれませんが、人の気持ちが気になりすぎてしまうのは、ある程度仕方がない部分があるのかな?と思ったりもします。
ボク自身も過去に考えすぎて苦しくなっちゃった時期があるしね。
いじめの経験もあったし、人種差別の経験もあります。
ただ「相手がどう思うか」を気にしているうちは、自分の人生を生きることができないと思うのです。
そもそも「相手がどう思うか」を行動理由にすると、他人の人生を生きることになる
他者のことを大切に思うことは素敵なことですよ。
ただ、それが「相手がどう思うか?」を考えすぎることになってはいけないって思うんです。
それだと、自分の行動理由が「相手がどう思うか」に左右されてしまうことになるからです。
自分の行動は「自分がどうしたいか」で決めたほうがいいんじゃないでしょうか?
じゃないと、自分の人生ではなく、他人の人生を生きることになってしまいます。
会食とかに行くと、めちゃくちゃわかりやすいんですが、自分の食べたいということも言えない状況になってしまったり、自分がどうしたいのか?を表現できない大人になってしまったりするのです。
で、それが子どもたちに影響しているなんてことも多くあったりするんです。
相手がどう捉えるかは、相手次第じゃないでしょうか?
そもそも「相手がどう捉えるか」は、相手次第だってこと。
ボク自身は、小学校低学年の時期は、とても良い先生に出会ったこともあってか、いろいろなことを話せる環境にありました。
ですが、高学年になってから、子どもながらに「こいつは、道具扱いしているな?」と感覚的な察知してしまい、そこから成績表とかも一切無視して行動するようになりました。
ま、いわゆる学級を荒らしていたということです。
思い返してみると、ボクのグレ始めたときは小学校のいじめと、先生の対応だったのかな?と感じます。
バラという花を見ても、感じ方は人それぞれなわけです
バラを見て「綺麗」と捉える人もいれば「毒々しい」「刺々しい」と捉える人もいます。
同じ事柄や言動一つにしても、「相手がどう捉えるか」は相手が決めることだということです。
相手の領域であり、自分がどうこうできる話ではないのです。
だから、それを気にしても仕方のないことなのです。
大概、ボクがキレキレになっているときは、よっぽど酷い行動をしたというカテゴリになるんですけどね・・・(笑)
ボクの中では「自分がどうしたいか」に従って行動した結果、相手が不愉快になったのは仕方のないことだと諦めています
ボク自身が「自分がどうしたいか」に則って行動しました。
その結果、相手が不愉快に感じるということはあるって思っています。
たとえば、友達が話を聞いて欲しいと言ってきたとしましょう。
でも、そのとき、あなたは精神的に参っていて、話を聞ける状況じゃなくて断ります。
結果、友達が不機嫌になった。
これって仕方のないことなんじゃないでしょうか?
では、自分を犠牲にしてでも、友達の話を聞くべきだったのか?という話になるんです。
過去のボクなら、自分を犠牲にしてでも話を聞いていたと思います。
はい、間違いなく。
でも今なら、はっきりと断ると思うんですよね。
「 今は、調子が悪くて聞けない、ごめん 」といえます。
自己犠牲は自己満足でしかないのです
自分を犠牲にして他者を助けるのは、一見美徳のようにも見えるんです。
ただ、自分を犠牲にするわけだから、確実に相手に見返りを求めるようになるんです。
世間を見渡しても、そんなようなカテゴライズされたビジネスなのか宗教なのか、そんなちょっとしたお花畑のスピってる人がやっているコンテンツが、その代表作ではないでしょうか?
ま、よくあるSNSコンサルが嫌われる理由もこれだと思っています。
あと、よくあるのがイベントに誘うだけ誘って、それ以外ではコミュニケーションを取らないパターンですかね?
心の中で「こんなにしてあげたのに!」って思うようになってしまうんです。
で、なんで思うかって分析をしてみたら、勝手に自分を犠牲にして、勝手に尽くして、勝手に見返りを要求する・・・って最低な循環になってたんじゃない?って、理解ができたわけです。
相手からしたら「頼んでないし」「知らんけど」っていう感じですよね?
これは、自己満足以外の何者でもないんです。
要求を満たさないと離れる相手なら、相手はあなた自身ではなく「都合の良いあなた」が好きだったということ
上の友達のたとえ話ですけど、これで離れて行く相手なら、そこまでの関係だと今は思うんですよね。
なぜかというと、それで離れていく相手なら、相手はあなたが好きなわけじゃなく「自分の都合の良いように動いてくれるあなた」が好きなだけなんじゃないでしょうか?
世間で言われる「いい人はどうでもいい人」という言葉ですけど、これって、本当にその通りだと思うんですよね。
いい人は「都合のいい人」であり「どうでもいい人」でしかないのです。
自分を殺してまで、「いい人」になっちゃダメじゃないですかね?
ま、とりあえず「相手がどう思うか」ではなく「自分がどう思うか」を大切にしようってことです
他者を大切に思うのは、素敵なことです。
ただ、それが自分の行動理由を決めることになってはいけないと思うんですよ。
気にするべきなのは「相手がどう思うか」ではなく「自分がどうしたいか」じゃないでしょうか?
もっと、自分の心の声に耳を傾けてあげて、自分自身をいたわってあげることが大事だってことです。
そう「相手」ではなく「あなた」はどうしたい?
ここに尽きるんじゃないでしょうか?
ではでは。
コメント