いつも文章を書いているとき、いろいろなことを考えて、意外と悩みながら書いています。
ま、ちなみに、悩んでいる時点でヒマなんです。
もう、こちらの方は、早く布団でコロコロしたくて仕方がないらしいんで…
よく「悩む」と「考える」ことは違うことだと言われます。
このように分けられているのですが、現在の世の中では、「考える」ということが、とても重視されているように感じます。
なぜなら、「悩む」というのは、一般的に答えがなく、悩むこと自体時間の無駄であるという考え方が浸透しているからです。
しかし、ボクはこんな考え方に対して、一石を投じたい気持ちがあります。
先に、結論を言いますが、両方大事なんじゃないかな?って思います
今回の書くのは「悩む」ことの重要さです。
ボク自身が。ここまでの考え方に至るまで、かなりのエネルギーをかけました。
それは時間にして、20年くらいでしょうか?
ボクのこれまでのささやかな変化をこのブログやボクを知っている人に届けることができたら嬉しいな…って思います。
少し、単純化しすぎているかもしれませんが、 ボクの考え方を参考にあなたの人生を今よりも有意義なものにできると思います。
ボクなりの「考える」ことについての見解
先に、考えることについて述べていきたいと思います。
考えることとは、どのようなことでしょうか?
また、なぜ考えるのでしょうか?
このような問いに答える形で思考を進めていきたいと思います。
考えるとはどのようなことか?
考えるとは・・・
ある目的があってその目的を達成するためにはどうすればいいかをあれこれと頭の中で試したり、想像したりすることです。
例えば、
- ある綺麗な女性(かっこいい男性)と付き合うために、彼女の趣味や見た目の好みを調査して、服装を変えてみたり、デートのお店を選んだりしたりすること
- 東京大学に入るために、どのような勉強をして、どのような時間配分でやればもっとも成功確率が上がるかを調べたり、試したり、反省したりすること
- サッカーの一流選手になるために、どんな練習をするかをあれこれ想像したり、調べたり、試したり、反省したりすること
以上の例からわかるように、考えることはある目的を出発点として、目的を達成するために様々な手段を調べたり、試したり、反省したりすることです。
では、次になぜ考える必要があるのでしょうか?という問いに答えたいと思います
なぜ考えるのか?
考える原因(動機)は、とても簡単です。
目的があるからです。
ボクも、あなたもみんなも、それぞれ目的を持って行動しています。
人である以上は、どんな時も目的を持って行動しています。
本当にどんな時も目的を持っているのか例を持って考えてみましょう。
例えば、
- 空腹を満たしたいけど、自分で作ったり外に出るエネルギーを使いたくない。と言う目的があったとします。そして、僕らはデリバリーを頼んで自分の空腹を満たしつつ、エネルギーを節約する。
- 仕事で社内で売上ナンバー1をとると言う目的があったとします。そして、そのためにただ単に営業先を多くするのではなくて、お金のある営業先を重点的に回る。
- 一流のパティシエになるという目的があったとします。そして、そのためにフランスの一流のパティシエの元で修行をして、技術を盗む。
このように目的には長期的なものから短期的なものがあります。
さらに、違う視点から考えると生理的な目的から、心理的な目的まで様々なレベルの目的があります。
以上の例から、人はある目的から逃れられないということがわかります。
そして、これらの目的を達成するために必要なことは達成するための手段です。
上の例でいえば、目的があるからデリバリーを頼む・お金のある営業先を重点的に回る・一流のパティシエの元で学ぶと言う具体的な手段が考えられます。
逆に言えることは、短期・長期もしくは生理的・心理的な目的にしろ、達成するための具体的な手段なしに目的を達成することはできません。
目的を達成するために、どのような手段を使って達成するのでしょうか?
そして、実際の状況からどのような手段が使えて、どのような手段を採用し、その手段の効果を評価し、次の一手をどのようにするのかと言うことを絶えず考えています。
以上では前提として、具体的な目的がある場合について述べてきました。
1. 目的が無い場合
以下では本当の意味で目的がない場合について考えていきたいと思います。
本当の意味で目的がないということは、楽をしたい・楽しみたい・生きたい・と言った生理的なレベルから世界で活躍したい・社内で一番になりたいなどといった心理的なレベルの目的なしに考えることです。
人は目的なしに行動することはできません。
しかし、あえて考えてみましょう。
と言っても、想像してみると、目的なしに考えを巡らすことは不可能だということに気づくはずです。
例えば
- 目的なしに家でだらだらする
- 家から出てエネルギーを消費するのを防ぎ、不得意な人付き合い避けるため
- 目的なしに旅に出る
- 何か人生には自分が見たことが無い世界、触れたことが無い価値観があるのでは無いかと探しに行くため
- 目的なしに友達と会話する
- 友達と一緒にいること自体が安心感を覚えるので、一緒に過ごして精神を安定させるため。
このように目的なしに行動しているようで、目的を持って行動していることが多々あります。
ただし、それが意識的に行動している場合と無意識的に行動している場合があります。
その点、自分自身では気づきにくいかもしれません。
以上の目的がある場合と目的が無い場合(厳密にはある)を整理してみると、ボクたちが考えている時に対象としているものは、手段だということがわかります。
さてさて、ここで疑問が浮かぶのではないでしょうか?
目的も考えることができるよ!と。。。
目的も考えることができるのか?
さて、目的も考えることができるのでしょうか?
目的にはレベルがあります。
先にそのレベルについて考えていきたいと思います。
ここで言うレベルは上手い下手と言ったレベルではなくて、抽象的か具体的か?原因か現象か?原因か結論か?一般か特殊?と言ったレベルです。
では、簡単な例で目的にはレベルが存在していることを示していきたいと思います
- 目的①
- 目的①を達成するための目的②
- 目的②を達成するための目的③
- 目的③を達成するための目的④
長期的な目的であればあるほど目的を達成するためには以上のように細かく目標を分けて達成する必要があります。また、図では手段が2パターンしかありませんが、実際にはもっとあるでしょう。
私たちが考えているつもりになっている目的は、②、③、④のことです。
①を達成するために②③④を考えているのです。
言い換えると、①を達成するための答えが②③④なのです。
では①はどのように設定するのでしょうか?
実は、①の設定は非常にエネルギーのいる作業です。
なぜなら、①の目的を設定するためには、自分の価値観や物事に対する考え方、個人の世界観などが大いに影響し、自分が何を大切にするかによって、何を目的とするかが決まってくるからです。
単純に手段を考えているだけでは、目的を決めることはできません。
私たちは、自分自身で自分自身が何を大事にしているのか?
どんな価値判断を持って物事に対して決断を下しているのか?
と言うことを考えなければ、自分の目的を決めることはできません。
というのも、私たちは個人によって何を大切にしているか違います。
例えば、
- 自分が一番大切
- 他人が一番大切
- 自分も他人も大切
以上の例から想像してみると、何を大切にするかによって、何を目的に行動するかが違ってくることがわかります。
別の言い方をすると、何に価値を置くかと言えます。
例えば、究極の選択をするときに自分が何に価値を置くか考えてみると面白いかもしれません。
- 家族と恋人がいる家で火事が起きて、助けることができるのはどちらか一方
- 自分の時間を優先するか家族の時間を優先するか?
- 世界で1番のスポーツ選手になるために、今の友人関係を捨てれるか?
などなど。
自分が意識的にしろ、無意識的にしろ、目的①を決める際は自分の価値観によって、目的を設定しているのです。
目的を決めるためには、判断が必要です。
しかし、その判断を決めるものは個人の価値判断が要因になっているのです。
わかりにくいので、例を持って述べていきたいと思います。
例えば、
- 子ども同士が喧嘩をしているのを見かけて、止めに入るという判断をする人は、とにかく暴力はいけないなどの価値判断からきています。
- 子ども同士が喧嘩をしているのを見かけて、そのままにするという判断をする人は、喧嘩もお互いを分かり合うためのきっかけであるといった価値判断からきています。
前者は、喧嘩を止めさせるという目的に対して、後者は仲良くさせるという目的です。
実際はこんなに極端なものではないですが、言いたいことは、それぞれの人は大事にしているものが違い、その違いから行動という判断、さらには目的まで変わってくるということです。
ボクたちは何かしらの価値観を持ち、価値判断をして、行動しています。
その価値観は意識的な時と、無意識的な時があります。
無意識的なことを認知するということは非常に難しいのですが、いずれにせよ意識的もにしろ、無意識的にしろ、自分がどのように物事を価値判断しているかという探求なしに、自分の目的を決めることはできないでしょう。
私の理解ではこの価値観の探求こそが「悩む」ということなのです。
「悩む」ことについて
悩むことは、自分の価値観や世界観、などの価値判断などについてあれこれと思考することです。
言い換えると、答えのないことを思考することが悩むことです。
では、どんな時に悩むでしょうか?
少し考えてみると
- 恋愛をしている時
- 進路を決めなければいけない時
- やりたいことを見つけたい時
- 善悪の判断をする時
- 命に関わる問題が起きた時
- あっちを取ればこっちが無くなると言った時
- 自分の人生の目標を決める時
このようなことなどがあります。
このように考えてみると、何か重要な選択をしなければいけない時に「悩む」ということが発生します。
逆に言えるのは、重要な選択をしない時はあんまり「悩む」ということをしないとも言えます。
これらの問題に対して悩む時は、精神的に非常に不安定になりやすいです。
- どうすればいいのかわからない
- 何を信じていいのかわからない
- 優先順位がわからない
- 大切なものがわからない
こんなような状態です。
さらに、往々にして決断の時は決まっている場合がほとんどでしょう。
進路、恋愛など様々な問題には決断をしなければいけないタイミングがあります。
その際、最良の選択をするには自分が自分の価値観に従った決断をしなければいけません。
なぜなら、自分の価値観とは逆のことをやると非常に苦しい思いをするからです。
例えばですが…
- 人のために仕事をしたいと思っている人が、人のために仕事をできないというのは非常に苦しい。
- 人を騙したくない人が、人を騙すようなことをすることは非常に苦しい。
- 自分の将来は一流のスポーツ選手になりたいのに、アルバイトや遊び続けるのは非常に苦しい。
どうですか?
このような経験はありませんか?
さらに、この決断を周りに委ねる人というのもまた多数でしょう。
- 周りの人が勉強なんて必要がない、ただ仕事をやっていればいいんだ
こういう意見に振り回されて、自分で考えずに流されて勉強をしない。
- 周りの人が勉強以外なんの意味もない、ただ勉強だけやっていればいいんだ
このような意見に振り回されて、自分で考えずに流されてひたすら勉強する。
- 日本において就職活動をしないことは、人生の終わりを意味する
こんな世間の無意味な意見に振り回されて、自分で考えずにただひたすら焦って就活する。
- 入社して3年以内に会社をやめた場合、大変だ
このような世間の意見に振り回されて、自分にとって何が大切か見えなくなる。
もちろん、すべてのことに関心を持ち、決断を下すことは不可能です。
だから、自分で範囲を絞る必要があるのですが、以上の例のように、他人に自分の判断任せることをしている場合、自分の人生を生きていると言えるのでしょうか?
ボク自身は、「考える」と「悩む」ということ自体も、世間が「考えること」以外時間の無駄だ!というように考えています。
まず「悩むこと」は無駄だ!と言っているから、自分も悩まないようにする…というのは、それ自体、ただの思考停止なんじゃないかと思うわけです。
上記でも述べていますが、「悩むこと」は自分の判断や決断後の結果にも多大な影響を与えます。
「悩むこと」でしか自分の価値判断の内容は見えてこないんです。
自分の価値判断の内容がわからなければ、いずれ大切なものを失うでしょう。
「悩むこと」はとっても重要なんです。
以下では、悩むことと考えることに対する自分の考え方の変遷を見ていきたいと思います。
なぜ「考えること」と「悩むこと」が問題になったのか?
そもそも、普段生活をしていて、多くの人にとって
「悩む」ことと「考える」ということを分けて考える経験は少ないでしょう。
僕自身もその一人でした。
僕は、小学校から大学まで「サッカー選手で一流になろう」と奮闘してきましたが、叶いませんでした。
まさに、小学校から大学までサッカーを通して一貫して「サッカー選手で一流になろう」という目標があったわけです。
ここまでで僕がサッカーにおいて悩んだこと(上述の意味で)はありませんでした。
当時、周りの人で何をしたらいいのかわからないという人を理解できませんでした。
けれど、高校から大学まで自分がどうやったらサッカー選手で一流になれるかが見えない状態が続きました。この時期は何も知らなかったので不安と言うよりも、焦燥感に駆られると言う感じでした。
高校ではとにかく目の前のことに一生懸命取り組んでいました。が、大学では目の前のことに一生懸命取り組んではいたものの、自分の成長イメージが持てませんでした。しかし、そんな中でも一生懸命やれば、目標を達成できるということを信じていたのです。
大学で目標が叶わなければサッカーをやめようと決心していた僕は、
卒業後は就活をして、ある程度の出世階段を上がっていくんだろうなぁと考えると。。。
当時の僕にとっては、それが全然楽しくない人生に感じたのです。
(今は、そんなことはありません。)
サッカーをやめるなければいけないという決断が現実的に迫ってくる中、
大学在学時に本格的に自分自身でビジネスや勉強を始めました。
この2つを始めた理由は、大したことはありません。
周りにビジネスや勉強をしている人がいたのと興味があったからです。
けれど、ここからが僕の人生の中で一番不安定な期間になります。
不安定な心を紛らわしたいがために、不安定な心を忘れるように目の前のビジネスに没頭しました。
すると、ある一つのことが見えてきました。
ビジネスでは、目標を明確に定義して、
目標を達成するために中間目標を作り、
最終的に自分が今しなければいけない作業の量と質、時間までを決めます。
その際、目標を達成するやり方が見えない場合は、目標自体を変える。
もしくは、やり方を探る。と言ったことをします。
これらの考え方を本で読んだり、人から聞いて、自分で試してみて、自分がサッカーで失敗している原因が明確にわかりました。
目標を達成するためのやり方がわからなかったからです。
目標自体を定義せず、やり方自体もわからない中で、
ただただ頑張っていただけなんです。
これでは、目標なんて達成できないのは当たり前ですね。
そこから私は目標を達成するための様々なやり方を学ぶことが必要だと感じて、
大学院でビジネスの勉強をすることを選択しました。
そして、大学院に入る前と入ったあとを含めると3年間ひたすら勉強をしていました。
(卒業まであと1年残っています。)
ずっと、世界的に何か大きなことをやりたいという気持ちを思っていた私は大学院が1年終わる頃、自分は一体何をしたいのかを考えるようになりました。
しかし、
以前と違うのは、きっと僕と同じように悩んで考えていた人が過去にもいるはずだと気づいていたことです。
そこで、様々な起業家の本や哲学などの本を読みました。
さらに、社会人の方や他の学生、両親など様々な人の話を聞きました。
そこから、また1つ見えてきたことがありました。
私自身が今考えていることは一般的な答えはでないものであり、
これは悩みであるということがわかったのです。
それから私自身は、自分の人生で何を成し遂げたいかを以前よりも具体的にすることができました。
以前と違うところは、
私自身が目的と手段の違いをはっきり理解したことでした。
つまり、「悩む」と「考える」の違いをはっきりと分けることができたということです。
すると、「悩む」と「考える」ということはどちらか一方が欠けてしまうと目的を設定できない。もしくは、目的を達成することもできない。
このような私自身が望まない結果になってしまうことに気づきました。
以上が私の「悩む」と「考える」に対する考え方の変化です。
まとめ
以上の対比は「悩み」と「考える」でしたが、
ちなみに、これらの対比は
「哲学」と「科学」
「理想」と「現実」
「目的」と「手段」
ということもできます。
話を戻しますと、
私自身は、ビジネスを通して、やり方の重要性に気づき、
勉強を通して、目的の重要性及び価値判断の重要性に気づきました。
そして、この経験を通して、
私は「考えること」以上の「悩むこと」の重要性について述べさせていただきました。
どちらにも長所や短所があるのです。
だから、どちらか一方という考え方ではなく、適切な場面での使い分けや組み合わせることが重要だと思っています。
以上が私の主張です。
すでに文章がくどいのですが、
文章の構成上、特に主要でないところは省いたつもりです。
その点はご注意ください。
さらに、
考えるということについて厳密に考えた場合、
単純に手段として考えるのは議論を単純化するために使っています。
人が考える時に使う方法は
「演繹」・「帰納」・「創発」(仮設形成・仮設的推論とも)というものがあります。
その点もいつか整理していきたいと思います。
今回は以上です。
さて、明日もがんばりますか。
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